古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
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●最古のパピルスが明かすもの
http://www.eloquentpeasant.com/2014/11/19/the-oldest-papyri-ever-discovered/
(たまに意訳で…)
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【最古のパピルスからはピラミッド建設についての記録が発見できたし、なぜエイリアンがピラミッドを作っていなかったかを論証します】
2014年11月19日 by Margaret最近私はDavid McRaney から
‘You Are Not So Smart’というポッドキャスト向けのインタビューを受けました。
自己妄想と「信仰」の性質についてのインタビューです。
彼は私に、常に一定の人気を集める「宇宙人ピラミッド建造説」について暴き出そうと(2007年にこのブログで記事を書きましたが)尋ねてきました。
私はこの話し合いをするまで、「ピラミッドは砂漠の真ん中にぽつんと建っているんだから、人間が建造できるわけがない」と思ってる人がいるなんて、思いもしませんでした。(実際にはぜんぜん違っていますね。写真はギザで撮っているのですが、そう狙って写しているのです――グーグルのストリートビューをご覧になれば分かります)。
私たちの話し合いはこちらで全てご覧になれます。http://youarenotsosmart.com/2014/09/30/yanss-podcast-033-the-psychology-of-forming-keeping-and-sometimes-changing-our-beliefs/
この話題に再び触れたことで、私は最近の、ピラミッドの正しい起源についてをより明らかにする発見について、こうしてちょっとした記事を書く気になったのです。
メディアがあなたに何を信じさせようとするかに関わらず、
我々は確かに、ギザのピラミッド群とその構造について非常に多くのことを知っています。
しかし、常に新たな発見が私たちの理解を拡大し続けているのです。
最近の発見のうち最も興味深いものは、ギザよりずっと遠い場所、ワディ・エル=ジャルフWadi el-Jarfでなされました。
そこでは考古学者らが、世界中で知られる港の中で最も古い、約4500年前の――ピラミッド時代の港を発掘しています。(写真はワディ・エル=ジャルフの地下道通路のひとつで、解体した船を保管するために使われていた。photo by G. Marouard)
紅海周辺の遺跡の調査は Pierre Tallet氏が率いるパリ・ソルボンヌ大学と、 Gregory Marouard氏が率いるシカゴ・オリエント協会の調査隊によってなされました。
彼らはここで、交易や採掘のための遠征に使われた船の解体されたものの残がいが、変わった地下通路――34mもの長さで、岩壁を掘削して作られている――に保管されていることを明らかにしました。
しかし彼らのこれまでで最もすばらしい発見は、一連のパピルスの破片であり、それには、ギザのピラミッド建造を支援したチームの日誌が書かれていました。
(すばらしい発見――ピラミッド建造過程を証明する実際の文書『メレルMererの日誌』。ピラミッド(「クフの地平」)の記述を示す写真)
100以上の破片が、監督官メレル率いるチーム――約200人男たちで成る――の日々の行動を記録した、個人の日誌を形作ります。
時間割が二つの段に分けて書かれ、良質な石灰石のブロック(ピラミッドの外装に用いられた)をトゥーラにある採石場からギザへ輸送することについての記録になっています。
これによると、ナイル川やそれに繋がる運河を用いて、『クフの地平』と呼ばれたピラミッド建築現場まで、約10kmの道のりを4日かけて運ばれました。
こうしたの活動を記録した日誌には、三ヶ月以上もの期間が記録されていました。(ワディ・エル=ジャルフの発掘現場にて、そのパピルスの写真 by G. Pollin)
メレルの日誌には、『ロ-シェ クフ Ro-She Khufu』と呼ばれる重要な行政区画を通ることが定期的に言及されています。
ギザの建築現場に到着する、ちょうど一日前にです。
そしてはっきりと、そこが宰相アンクホルの勢力下であると書かれているのです。
アンクホルはクフ王の(片親の違う)弟です。
アンクホルが宰相と、クフの後継者であるカフラー王の作業所の監督を勤めていたことは、以前から知られていました。彼はおそらく、カフラー王のピラミッド建築を(スフィンクスも同様に)監督しただろうと考えられています。
メレルの日誌は、アンクホルが大ピラミッドの建設の最終段階にもいくらか関わったのだ、ということを裏付けました。(アンクホルの胸像(MFA 27.442)by K. Schengili-Roberts)
日誌はクフ王の治世の行政報告とともに発見されており、
それは「第13回目の家畜計上年」の翌年であることが分かります。
家畜の計上は隔年、規則的に行われており、これはクフ王の治世27年、つまりクフ王の治世の最後の年を示します。
こうしたことから、ピラミッドの外装はクフ王の治世の最後の最後に完成を迎えたということがわかります。
それにしても、なぜ大ピラミッド建造についての文書が紅海の港で発見されるのでしょうか?
この文書はおそらく、ワディ・エル=ジャルフに寄贈されたものだと考えられます。
なぜなら、ギザのチームのひとつは後に港での仕事につく必要があったからです。(それはおそらく、ギザで使う道具の原材料として、シナイで採れる銅を手に入れるためか、港の地下通路を記念碑で閉鎖する儀式のため)
発見されたパピルスは、ピラミッド建築について我々が既に知りえていた情報に変更を加えることはありませんでした。それらは、われわれの既存の知識をその通りであると確認させただけでなく、その過程、習慣そして大ピラミッドの背景にある人々についてを、よりはっきりと認識することに貢献しました。他の港での発掘調査でというより、むしろギザその場所での調査により、更なる情報が得られます。
マーク・レーナー氏とAERAチームは、Heit el-Ghurabとして知られるピラミッド労働者たちの町と港についてを発掘調査中です。
ドリルの形跡から、そこに氾濫原(増水時に水に覆われる部分)を削って作られ、ナイル川と繋げた大きな人工の港があったことが明らかになってきました。
港は採石場から石を運んだり、外来品やその他様々な物品を届けたりするのに役に立ったことでしょう。
多くの巨大な遺構は労働者の宿舎か貯蔵庫、あるいは両方だったかもしれません。
ここでの発見は、「ピラミッド建築労働者はどのように養われていたか」等、実質的な問題についての情報を提供してくれます。パピルスに記されたピラミッド日誌はまだ完全には公表されていません。
Wadi el-Jarf と Heit el-Ghurabの両港についても、発掘調査は継続中です。
どちらも、まだ我々の知らない秘密を隠し持っているかもしれません。
この、古代世界の不思議のうちたった一つ残された建造物の、複雑な過程や背景について、より良い理解をもたらす可能性も、まだまだあるのです。(ギザのHeit el-Ghurab の遺跡の写真 by Y. Mahmoud)
***
クフ王の名前がはっきり読めますね。
宗教的な内容ではなかったですが、
ピラミッドに関する内容であったとはびっくりです。
分かりやすくまとめられた記事だと思いました。
※発見当時の記事はこちら
●古代エジプトの金鉱業
気になったので↓途中から訳しました。いつも以上に適当になってます、すみません。
http://www.miningweekly.com/article/gold-mining-in-ancient-egypt-2012-06-08
どの地域に置いても、黄金は「文明の曙」より重要な位置を占め続けているものであるが、
それが最も最古に、顕著に見て取れるもののひとつは、「古代エジプト」である。古代エジプトでは、先王朝時代(BC約3100年)から黄金の使用が見られる。
それがどこからもたらされたかは謎のままだが、おそらく沖積層より抽出したもの【訳注:岩石が風化・分解し、含まれていた鉱物が分離したもの。砂金など】だろうと考えられる。
体系的な金鉱脈からの抽出は、初期王朝時代がはじまって以降のものと見られる。
初期の採掘作業は、コプトスの東【ワディー・ハンママートのあたり】、花崗岩の山岳、より南のヌビア、ナイル川と紅海の間でなされた。
古代エジプトにおいて、金はラー神の肉体であると考えられたため、
永遠の生命の象徴と捉えられた。(そのため、王族の埋葬などには重用されていた)
初期には、王のみが金で飾ることを許されていたが、後に王族全体や神官にも広がった。神像や神殿を飾るのにも使われるようになった。危険な採掘には奴隷労働者が用いられていたという証言が、ギリシャの歴史家ディオドロス・シケリオス(BC60―30年)によってはっきりと残されている。
「労働者たちは金属の糸に続き、ランプの光をたよりに地下へと降りてゆく。石は外に運び出され、そこで粉砕し、小さな破片にする。労働者は手を止めることがない。彼らは鞭打たれ、ひどい仕打ちを受けて絶え間なく労働するよう仕向けられている。子供ですら免れられず、石のブロックを運んだり、粉砕し破片にしたりしている。その破片は30以上の中年の男女が手に取り、鉄製の乳鉢で砕く。・・・」
「ひとつの粉砕所では2,3人が働いている。不幸な彼らがどれほどの苦しみを抱いているかを描くのは不可能だ。むき出しの肌が風雨に晒され、彼らは休息を許されていない。墓に行く寸前の年寄りも、弱い女も、また高熱によって震えるような病気のものにも、哀れみの念などなく、彼らが働いているこの場で死んでしまうまで、無差別に繰り返し鞭はふるわれる。」
処理過程は原始的だが巧妙である。
粗金が粉にされた後、少し傾いたテーブルに広げ、水を流して土などを取り去る。こうすると重みのある金だけが残る。こうした工程が労働者によって繰り返され、その後、彼らは金の粉をしばらく手でこする。そうしてから小さなスポンジで、水では取り去れなかった不純物を取り除く。こうして、砂金は綺麗になり、輝きだす。
新王国時代(BC1589―1150年)までには、金細工師がエジプト社会でも重要な地位に上り、墓に埋葬したり神殿で神に捧げたりするための宝飾品の売買は、この時代に最も繁栄したもののひとつだった。そういうわけで、黄金を富と権力の象徴という固定観念を人類にしっかりと植え付けたのは、5500年以上前の古代エジプトによる。
興味深いことに、6-700万オンスもの金が東部砂漠より採掘されていると考えられている。
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昔は砂金とかで……っていうのが面白かったです。
あと、地下にあるんだっていうのも…。山の上にあるんだと思ってた!
今までと重複するところもあるので、
途中から訳します。
参考:発見時の記事
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/215/
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/216/
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谷の南東部の端で、人工的な縁石の3辺(約1×1.5メートル)を発見した。
考古学者たちはそれを、放棄した墓の上面だろうと考えた。
(そして革命開始の不安定な情勢のため、鉄の扉でふさいだ)一年後、革命から一周年になろうかというときに、ビッケルは24人のチーム(ディレクターであるバーゼル大学のエリナ・ポーリン・グローテ、エジプトの検査官アリ・レダ、地元の労働者を含む)とともに戻った。
彼らはシャフトから砂と砂利を取り除くクリーニング作業を開始、
2.4メートル下ったところで、大きな石で閉ざされた扉の上辺にあたった。
シャフトの底にはナイルの泥で作られた陶器の破片、墓の入り口を封じたりするのによく使われていた石膏のかけらを発見した。
これらの石膏のかけらは、近くの他の墓の年代とともに、このシャフトが実際にBC1539-1292年(第18王朝)頃の墓であることを示す、はじめのサインだった。
大きな石は後に足されたようだった。石が入り口をふさいではいたが、小さなデジタルカメラを入れることが出来るくらいの穴があった。ビッケル、ポーリン・グローテ、そしてエジプト人の労働者の長が交代で地に横たわり、頭をシャフトの壁に押し付け、片手を穴に通し、写真を撮った。
この驚くべき画像は、岩を切り出して作られたこの3.9×2.5メートルほどの小さな部屋が、天井まで1メートルほどを残して瓦礫でうまっていることを明らかにした。これによって、これが墓であることはほとんど疑いの余地がなくなった。
瓦礫の上には、ほこりをかぶった黒い棺――シカモアの樹を切り出して作られ、その側面と上面には大きな黄色いヒエログリフで飾られた――が横たわっていた。
「これまでにこんな良い常態の棺を見つけたことはありません」ビッケルは言う。
ヒエログリフはこの墓の占有者を語る。
名は 「Nehemes-Bastet ネヘメス・バステト」、上流階級の「レディ」で、アメン神の「shemayet 歌い手」で“父親はテーベのカルナク大神殿の神官”であった。
棺とヒエログリフの色はBC945-715年ごろのスタイル(墓が作られてから少なくとも350年後)と一致している。棺は、この埋葬室が(当時の一般的習慣である)再利用したものであることを示している。この棺と同じ時代のものとされる出土品は、木製のステラだけで、iPadよりほんの少し小さいそれには、死後の世界の彼女へ捧げられた祈りが描かれており、腰掛けた太陽神アメンの前にニヘムスバステトと思われる人物の図がある。
白、緑、黄と赤に塗られた色は少しも色あせていなかった。ビッケルが言う。「つい最近倉庫から持ち出され物みたい」
埋葬室を満たしていた瓦礫は、元の18王朝の墓の遺物――陶器、木の破片、そしてこの墓の元の持ち主のものと思われる、布で包まれていないバラバラになったミイラの一部――を保持していた。
そしてこれも特筆すべきことだが、王家の谷の未盗掘墓の発見としては、このニヘムス・バステトの墓以前は、あのハワード・カーターが1922年に発見したツタンカーメンの墓が一番最近の発見だったのだ。王家の谷はほとんど発掘されつくしていて、何も新しいものは残っていないといわれている。
ベニス(ベネチア)の古物収集家ジョバンニ・ベルツォーニは1817年の遠征で谷の墓を空っぽにしたと信じていた。一世紀ほど後にそこを発掘したセオドア・デイヴィスは似たような結論に――ツタンカーメン王墓が発見される直前に――至った。
もちろん、他の発見がこの谷でもあった。
1995年にはワシントン州タコマのパシフィックルーセラン大学、ドナルド・ライアン率いる調査隊がラムセス2世の家族に使用された墓の調査を行い、それまで知られていなかった階段を発見。それはラムセス2世の息子たちの眠る121以上の部屋へと通じていた。残念なことに、それらは古代に盗掘され、鉄砲水によるダメージを受けていた。
2005年にはオットー率いるSchaden of the Amenmesse プロジェクトが未盗掘の部屋を発見、7つの棺とミイラ作業に使われる材料の入った28の壷が見つかった。その部屋は、しかしながら、身体が見つかっておらず、墓とは考えにくいものだった。ビッケルのチームが更なる研究のためニヘムス・バステトの棺を墓の外に出す前に、それが動かされたとき中身にダメージを受けるものがないかを確認しなければならない。ふたを閉じていた釘を取り外す作業に、プロの修復家の手で丸一日かかかった。検査官アリ・レダと上エジプト考古物の主任検査官モハメド・エル・ビアリーは、ビッケル、ポーリン・グローテとともにそれを開いた。中には、1.5メートルほどの高さの丁寧に布を巻かれたミイラが存在した。
それは、ミイラ化の作業に用いられた、粘着性のフルーツ由来のシロップのために、全体的に黒くなっており、底にも付着していた。発見されてからわずかの間に、その墓は葬られた女性についての興味深い洞察を与えてくれた。 ニヘムス・バステトの埋葬された時代(BC945-715年頃)はエジプトがその力と影響の上でピークといえた時期よりずっと後だった。大ピラミッドはもう1500年も前のことだったし、新王国時代の隆盛した日々は過ぎ去っていた。ニヘムス・バステトは第三中間期の時代――エジプトが他にすのファラオとテーベの高官(富と権力が伝統的な王のものに匹敵していた)による断続的な戦争によって分裂してしまった時代――を生きた。
「かなり不安定な時代だったでしょうね」シカゴ大学オリエント研究部の研究助手でありエジプト学者のエミリー・ティータは言う。「彼女の時代は、これらの派閥が争いあっていたんです」「この期間に、裕福な女性がこのように簡素に埋葬されているなんて、興味深いことです」ビッケルはニヘムス・バステトの棺とステラを、より早期の墓から見つかった精巧な陶器や家具、食物と比較して言う。「彼女の木製の棺は間違いなく、非常に高価だったわ」しかし類似の埋葬で発見されるような棺によくある精巧な内棺を欠いていた。
ニヘムス・バステトの日常についてはより詳細に、当時の像やステラに刻まれた豊富な描写、テキストそしてレリーフから描き出すことが出来る、とティータは言う。
アメン神殿の歌い手として、彼女はテーベにある約1平方kmのカルナク神殿複合体に住んでいただろう。彼女の名は、「バステト女神が彼女を守るよう」という意味を持つことより、彼女は猫の女神であり「聖なる母」であった下エジプトの守護者であるバステトの加護を受けていた。しかしニヘムス・バステトの職業は、それにもかかわらず、エジプトの神々の中の王であるアメン神を崇拝するものであった。古代エジプトの宗教において、音楽は主な構成要素だった。
ティータは、音楽が神々を沈め、また参拝者への供給を促進すると信じられていた、と説明する。
ニヘムス・バステトは神殿の庭や聖域で演じる多くの音楽家・女神官の一人だった。
「仮説では、彼女たちは歌い、演じ、また年に何度か行われる大きな儀式や祭の行列に参加していました」と、ビッケルは言う。
こういった歌手たちが手にする主な楽器の、楽器「メナト」は、たくさんのビーズの房を束ねたネックレスを振って使うもの。「シストラム」は、手に持つガラガラで、その音はパピルス葦が風で揺れた時のさらさらした音のようであるといわれている。
宗教的な行列では、他の楽士たちが太鼓やハープ、リュートを演奏していただろう。
「それがどんな音楽なのか、人々は長年議論してきました」ティータは言います。「けれど音楽の譜面のようなものは何も残されておらず、どのように調律したか、それが歌であったのか詠唱であったかすら分からないのです」
ある学者は、それがラップの古い祖先のようなものであったかもしれないと考えている、と彼女は加える。
強調部分は確かに打楽器を用いていた。人々が足を踏み鳴らしたり手拍子する図が良く示されている。
歌詞の例は神殿の壁に記録されている。下記はルクソールのもので、オペト祭――アメン、ムト、コンスの神々の像が船でナイルに運ばれ、ファラオの神聖な性質が更新される祭――に言及している。
『万歳、アメン・ラー、二国のうちではじめの者、カルナクの第一人者。
川の船団の中の輝かしい御姿に、素晴らしいオペト祭に、あなたが満足されますように。』
「アメンの歌い手」という肩書きは、上流階級の女性のものだ、とティータは言う。
系図は複数世代の女性が同じ肩書きを持つことを示しており、おそらく母が娘へと職業を教え、継がせていったのだろう。
「とても栄誉ある職でした」ティータは言う。「これらの職業の女性は社会的にとても尊敬されました。だから、この『ニヘムス・マステト』は王家の谷に埋葬されたのでしょう」
彼女たちが神官と同じ立場だったとすると、アメン神が国中に「所有している」甚大な土地面積から生成されたものが収入として支払われていたことになる。神官や女神官のうちいくらかは、一年のうちに家に帰るまでほんの数ヶ月、神殿に仕えるだけだった。
ニヘムス・バステトのような女性が家に帰って何をしたかについてはほとんど情報がない、とティータは言う。しかしおそらく、当時の女性たちの伝統的な仕事――家事をし、子供を育て、夫を支援する――とさほど変わらなかっただろうと思われる。
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最後の一節は訳してませんすみません。
墓から出して対岸に運んで詳細を研究していくそうです。
元の第18王朝のミイラも調べて、名前か、とにかく少しでも知りたいと。
あと、ニヘムス・バステトのミイラは今年の終わりごろか2013年のはじめごろにはCTスキャンする予定とのこと。
墓や遺物の最終分析にはおそらく4、5年かかるだろうと。
とにかく、「まだ未盗掘の墓があったなんて!」というのが驚きだったようです。
オットー曰く、「『この谷にはもう何もない』、と言うのは早すぎる」だそうです。
●続・ニヘムスバステトの墓
日本の記事ネフメトバステトで通ってる気がして気になってます…
ということは置いといて。
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-16576265
月曜のうちに棺の中見てたーー!
ミイラ、ちゃんとあるんだそうです。
綺麗に包まれていたそうで。
木製の棺が無事だったので、中も大丈夫だろうとは、思ってたのですが、
中だけ持ち出されてたり、よくあったそうなので(包帯に護符が巻かれていて、それが貴石や貴金属であったから)。
記事にあることをいくつか。
・この墓の上縁を見つけたのは、去年(2011年)の1/25、エジプトで革命が始まった日。そのため鉄の扉で入り口をふさいだ。
・今年の発掘シーズンが始まったのが先週。調べてみると、おそらく盗掘されていない状態(王家の谷では非常にまれ)の、墓であることが分かった。
・王族のためでない墓は、王家の谷にも他にあるが、ほとんど18王朝のもの。22王朝のものは珍しい(とはいっても、この墓そのものは18王朝に作られたものだそうですが)
・この墓はトトメス3世の墓の近くにある、壁に装飾のない墓の一群のひとつである。
・2006年に発見されたKV63(ツタンカーメン以来初めて王家の谷で発見された墓)には棺が7つあったが、どれもミイラを含んでいなかった。
つまり
ツタンカーメン以降、王家の谷で初めて棺入りのミイラが発見された
ということでしょうか。
ちょっとセンセーショナルな(?)書き方をしてみました(笑)
傍に置かれたステラの詳細と、
棺に書かれたヒエログリフが気になるところです。
クリーニングにはしばらくかかりそうですね。
http://blog.britishmuseum.org/2012/01/12/amara-west-2012-impressions-in-time/
大英博物館の発掘ブログを訳します。
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アマラ西2012
by ジュネーブ大学 マリアVandenbeuschこの地域での家の建てられ方は、いくつかの点で、恒久的なものとなりました。
特に屋根がそうです。
現代の天井は(私たちが小さな断片から再構成しなくてはならない)古代の屋根がどのように作られたかを示すことができます。
それは発掘現場近くの村に建てられた現代の家で容易に見ることができますが、古代の家に関しては、もう少し複雑でした。アマラ西では屋根が残っていません。壁と床だけが残っています。
けれど何もかもが失われているわけではありません。
パッと見、たいした印象をもたらさないような泥の「痕」がとても役に立つのです。
それらは、屋根を作るときに使ったさまざまな素材と、層の違いを、記録しているのです。木と、ほかの植物の素材はずっと前に、シロアリに食べられ失われました。
しかし、泥についた「痕」がわれわれに、大きな梁(はり)と柱が使われていたことを伝えます。
われわれのディグハウスの屋根も同じ方法で作られていますが、今は金属の梁(時には使われなくなった鉄道の線路から)が好まれています。泥の「痕」でいくつか見ることができるように、葦とヤシの葉のような草を重ね、ときどき束に結んだ物は、二種類のマットと一緒に広く使われています。
マットの織り方は、この地域で今も作られ、使われつづけているものと、非常に似通っています。時間と文化の隔たりはあるものの、現代の家は古代の屋根に対するわれわれの理論と再構築をテストするための場所として機能するのです。
いくつかの技術は、北スーダンで、何千年もの間変化しながら生き延びてきました。
おそらく、その地域の気候と素材が、最もよくフィットするからなのでしょう。
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ブログ内に写真がありますが(一番下:カリファ・ハウス・ミュージアムより)
言葉で読むより、目で見たほうがずっと分かりやすいですよね。
古代の屋根の様子です。
そのひとつ上にある写真は
泥についた植物(草?)の痕、紀元前1100ごろのものだそうで
こういう模様、葬祭殿なんかの壁や柱の模様とかと似てるなあと…。
古代エジプトの建造物の「模様」は、だいたい元使っていた素材(葦など)を模しているものが多いと聞きましたが
これを見ると、なるほど、という感じがしますね…。
あまりに綺麗なので、何か転がして型をつけたのかと思うほどで(笑)。
マットか何かの痕でしょうか、とても整っていますよね。