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古代エジプト関連限定ブログです!
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●KV64ニヘムス・バステトの墓、詳細

 2012年1/15に新しく発見された
 KV64(ニヘムスバステトの墓)について、続報です。
(写真あり)
http://www.archaeology.org/1207/features/valley_of_the_kings_egypt_chantress_coffin.html

 今までと重複するところもあるので、
 途中から訳します。

参考:発見時の記事
 http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/215/

 http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/216/

****

 谷の南東部の端で、人工的な縁石の3辺(約1×1.5メートル)を発見した。
 考古学者たちはそれを、放棄した墓の上面だろうと考えた。
 (そして革命開始の不安定な情勢のため、鉄の扉でふさいだ)

 一年後、革命から一周年になろうかというときに、ビッケルは24人のチーム(ディレクターであるバーゼル大学のエリナ・ポーリン・グローテ、エジプトの検査官アリ・レダ、地元の労働者を含む)とともに戻った。
 彼らはシャフトから砂と砂利を取り除くクリーニング作業を開始、
 2.4メートル下ったところで、大きな石で閉ざされた扉の上辺にあたった。
 シャフトの底にはナイルの泥で作られた陶器の破片、墓の入り口を封じたりするのによく使われていた石膏のかけらを発見した。
 これらの石膏のかけらは、近くの他の墓の年代とともに、このシャフトが実際にBC1539-1292年(第18王朝)頃の墓であることを示す、はじめのサインだった。
 大きな石は後に足されたようだった。

 石が入り口をふさいではいたが、小さなデジタルカメラを入れることが出来るくらいの穴があった。ビッケル、ポーリン・グローテ、そしてエジプト人の労働者の長が交代で地に横たわり、頭をシャフトの壁に押し付け、片手を穴に通し、写真を撮った。
 この驚くべき画像は、岩を切り出して作られたこの3.9×2.5メートルほどの小さな部屋が、天井まで1メートルほどを残して瓦礫でうまっていることを明らかにした。これによって、これが墓であることはほとんど疑いの余地がなくなった。
 瓦礫の上には、ほこりをかぶった黒い棺――シカモアの樹を切り出して作られ、その側面と上面には大きな黄色いヒエログリフで飾られた――が横たわっていた。
 「これまでにこんな良い常態の棺を見つけたことはありません」ビッケルは言う。
 
 ヒエログリフはこの墓の占有者を語る。
 名は 「Nehemes-Bastet ネヘメス・バステト」、上流階級の「レディ」で、アメン神の「shemayet 歌い手」で“父親はテーベのカルナク大神殿の神官”であった。
 棺とヒエログリフの色はBC945-715年ごろのスタイル(墓が作られてから少なくとも350年後)と一致している。棺は、この埋葬室が(当時の一般的習慣である)再利用したものであることを示している。

 この棺と同じ時代のものとされる出土品は、木製のステラだけで、iPadよりほんの少し小さいそれには、死後の世界の彼女へ捧げられた祈りが描かれており、腰掛けた太陽神アメンの前にニヘムスバステトと思われる人物の図がある。
 白、緑、黄と赤に塗られた色は少しも色あせていなかった。ビッケルが言う。「つい最近倉庫から持ち出され物みたい」
 埋葬室を満たしていた瓦礫は、元の18王朝の墓の遺物――陶器、木の破片、そしてこの墓の元の持ち主のものと思われる、布で包まれていないバラバラになったミイラの一部――を保持していた。
 そしてこれも特筆すべきことだが、王家の谷の未盗掘墓の発見としては、このニヘムス・バステトの墓以前は、あのハワード・カーターが1922年に発見したツタンカーメンの墓が一番最近の発見だったのだ。

 王家の谷はほとんど発掘されつくしていて、何も新しいものは残っていないといわれている。
 ベニス(ベネチア)の古物収集家ジョバンニ・ベルツォーニは1817年の遠征で谷の墓を空っぽにしたと信じていた。一世紀ほど後にそこを発掘したセオドア・デイヴィスは似たような結論に――ツタンカーメン王墓が発見される直前に――至った。
 もちろん、他の発見がこの谷でもあった。
 1995年にはワシントン州タコマのパシフィックルーセラン大学、ドナルド・ライアン率いる調査隊がラムセス2世の家族に使用された墓の調査を行い、それまで知られていなかった階段を発見。それはラムセス2世の息子たちの眠る121以上の部屋へと通じていた。残念なことに、それらは古代に盗掘され、鉄砲水によるダメージを受けていた。
 2005年にはオットー率いるSchaden of the Amenmesse プロジェクトが未盗掘の部屋を発見、7つの棺とミイラ作業に使われる材料の入った28の壷が見つかった。その部屋は、しかしながら、身体が見つかっておらず、墓とは考えにくいものだった。

 ビッケルのチームが更なる研究のためニヘムス・バステトの棺を墓の外に出す前に、それが動かされたとき中身にダメージを受けるものがないかを確認しなければならない。ふたを閉じていた釘を取り外す作業に、プロの修復家の手で丸一日かかかった。検査官アリ・レダと上エジプト考古物の主任検査官モハメド・エル・ビアリーは、ビッケル、ポーリン・グローテとともにそれを開いた。中には、1.5メートルほどの高さの丁寧に布を巻かれたミイラが存在した。
 それは、ミイラ化の作業に用いられた、粘着性のフルーツ由来のシロップのために、全体的に黒くなっており、底にも付着していた。

 発見されてからわずかの間に、その墓は葬られた女性についての興味深い洞察を与えてくれた。 ニヘムス・バステトの埋葬された時代(BC945-715年頃)はエジプトがその力と影響の上でピークといえた時期よりずっと後だった。大ピラミッドはもう1500年も前のことだったし、新王国時代の隆盛した日々は過ぎ去っていた。ニヘムス・バステトは第三中間期の時代――エジプトが他にすのファラオとテーベの高官(富と権力が伝統的な王のものに匹敵していた)による断続的な戦争によって分裂してしまった時代――を生きた。
 「かなり不安定な時代だったでしょうね」シカゴ大学オリエント研究部の研究助手でありエジプト学者のエミリー・ティータは言う。「彼女の時代は、これらの派閥が争いあっていたんです」

 「この期間に、裕福な女性がこのように簡素に埋葬されているなんて、興味深いことです」ビッケルはニヘムス・バステトの棺とステラを、より早期の墓から見つかった精巧な陶器や家具、食物と比較して言う。「彼女の木製の棺は間違いなく、非常に高価だったわ」しかし類似の埋葬で発見されるような棺によくある精巧な内棺を欠いていた。
 ニヘムス・バステトの日常についてはより詳細に、当時の像やステラに刻まれた豊富な描写、テキストそしてレリーフから描き出すことが出来る、とティータは言う。
 アメン神殿の歌い手として、彼女はテーベにある約1平方kmのカルナク神殿複合体に住んでいただろう。彼女の名は、「バステト女神が彼女を守るよう」という意味を持つことより、彼女は猫の女神であり「聖なる母」であった下エジプトの守護者であるバステトの加護を受けていた。しかしニヘムス・バステトの職業は、それにもかかわらず、エジプトの神々の中の王であるアメン神を崇拝するものであった。

 古代エジプトの宗教において、音楽は主な構成要素だった。
 ティータは、音楽が神々を沈め、また参拝者への供給を促進すると信じられていた、と説明する。
 ニヘムス・バステトは神殿の庭や聖域で演じる多くの音楽家・女神官の一人だった。
 「仮説では、彼女たちは歌い、演じ、また年に何度か行われる大きな儀式や祭の行列に参加していました」と、ビッケルは言う。
 こういった歌手たちが手にする主な楽器の、楽器「メナト」は、たくさんのビーズの房を束ねたネックレスを振って使うもの。「シストラム」は、手に持つガラガラで、その音はパピルス葦が風で揺れた時のさらさらした音のようであるといわれている。
 宗教的な行列では、他の楽士たちが太鼓やハープ、リュートを演奏していただろう。
 「それがどんな音楽なのか、人々は長年議論してきました」ティータは言います。「けれど音楽の譜面のようなものは何も残されておらず、どのように調律したか、それが歌であったのか詠唱であったかすら分からないのです」 
 ある学者は、それがラップの古い祖先のようなものであったかもしれないと考えている、と彼女は加える。
 強調部分は確かに打楽器を用いていた。人々が足を踏み鳴らしたり手拍子する図が良く示されている。
 歌詞の例は神殿の壁に記録されている。下記はルクソールのもので、オペト祭――アメン、ムト、コンスの神々の像が船でナイルに運ばれ、ファラオの神聖な性質が更新される祭――に言及している。
 
   
     『万歳、アメン・ラー、二国のうちではじめの者、カルナクの第一人者。
    川の船団の中の輝かしい御姿に、素晴らしいオペト祭に、あなたが満足されますように。』
 

 「アメンの歌い手」という肩書きは、上流階級の女性のものだ、とティータは言う。
 系図は複数世代の女性が同じ肩書きを持つことを示しており、おそらく母が娘へと職業を教え、継がせていったのだろう。
 「とても栄誉ある職でした」ティータは言う。「これらの職業の女性は社会的にとても尊敬されました。だから、この『ニヘムス・マステト』は王家の谷に埋葬されたのでしょう」
 彼女たちが神官と同じ立場だったとすると、アメン神が国中に「所有している」甚大な土地面積から生成されたものが収入として支払われていたことになる。神官や女神官のうちいくらかは、一年のうちに家に帰るまでほんの数ヶ月、神殿に仕えるだけだった。
 ニヘムス・バステトのような女性が家に帰って何をしたかについてはほとんど情報がない、とティータは言う。しかしおそらく、当時の女性たちの伝統的な仕事――家事をし、子供を育て、夫を支援する――とさほど変わらなかっただろうと思われる。


****

 最後の一節は訳してませんすみません。
 墓から出して対岸に運んで詳細を研究していくそうです。
 元の第18王朝のミイラも調べて、名前か、とにかく少しでも知りたいと。
 あと、ニヘムス・バステトのミイラは今年の終わりごろか2013年のはじめごろにはCTスキャンする予定とのこと。
 墓や遺物の最終分析にはおそらく4、5年かかるだろうと。
 とにかく、「まだ未盗掘の墓があったなんて!」というのが驚きだったようです。
 オットー曰く、「『この谷にはもう何もない』、と言うのは早すぎる」だそうです。

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心はイウヌ在住。ラー神信者。

 古代エジプトについて趣味で勉強中。
 正式にはまったく学んだことのない、完全な素人です(笑)。
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 突込みなどは、喜んでお受けします。勉強になります。

※相互リンクはエジプト関連のみ受け付けます。
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