古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
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●墓のささやき
byザヒ・ハワス博士 2009年10月29日
http://aawsat.com/english/news.asp?section=7&id=18628
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私の見解によれば、
イスラエル人の出エジプトは科学者と調査員の間で、審判の日になるか、この問題を解決することができるような新しいし考古学的証拠が発掘されるまで、論争を残したままになることでしょう。
今日の歴史家および考古学者に利用可能な情報を考慮したところで、われわれには節度ある実践や用心をすることくらいしかできないのです。(?)
フランスの考古学者アラン・Zivieサッカラ区域のアブワブ・アル=コタト「猫の扉」として知られる地域で、アペル・アルの墓(?)の発見に続いて、考古学者たちの間であるうわさが囁かれました。
アブワブ・アル=コタトは、墓に埋葬された何千ものミイラ化された猫が発見されたことから名づけられました。古代エジプト人が猫の頭をしたバステト女神を信仰していたことは良く知られています。バステト信仰の中心地はテル・バスタに位置していますが、それはエジプトの都Zagazigあり、以前はブバスティス(バステトという語が由来)として知られていました。
Zivieは岩盤を地下30メートルまで掘り下げた埋葬室に着くまで、地下を深く進むことで墓を発見しました。彼は墓を復旧し、また彼自身が安全に埋葬室に着くようにする為に、カイロ・メトロ・プロジェクトで働くフランスの技術者に援助を求める必要がありました。こうしてZivieはサッカラでほとんど手を付けられていない近代の王国の墓を発見したのです。
このほぼ20年ほど前に起こった墓の発見は、重要な考古学的イベントを残しています。その理由は、この墓に埋葬された人物は「アペル・アル」として知られていますが、これはヘブライ語の名前のエジプト化されたものなのです。
アペル・アルはアメンヘテプ三世と、後には彼の息子であるアクエンアテン王の、大臣だったのです。アクエンアテン王は、アテンと呼ばれた太陽の崇拝によって表される一神教を創立した、はじめの統治者でした。
この墓の発掘は1980年に始められ、1989年までと、10年ほど続けられました。この場所で見つけられた人工品の中にはいくつか「アテンの精神的な父親」や「神官」「アテンの第一のしもべ」といった肩書きが描写されていました。
これらはアペル・アルがアクエンアテンの治世に、メンフィス地区でアテン神の主任司祭として仕えていたことを意味します。
もちろん、ヘブライ人の墓の発見のニュースの影響で、メンフィスにアテン神殿があったかどうか疑問視する考古学者から多くの質問や論争がもち上がりました。
アペル・アルの墓から発見されたポートレイトは、そういった神殿が実際にメンフィスにあったということを示しており、これは考古学の間で伝統的に信じられていた、首都テル・エル=アマルナ以外で一神教(アテン教)は存在しなかったとする見解と、まったく反することなのです。
テル・エル=アマルナはアクエンアテンによって、彼の家族のために建設された都です。彼は生涯この都を出ないことを誓い、都を「Akhen-Aten」(?)……アテンにとって忠実・忠誠な都、と名づけました。
これに加え、トーラー(旧約聖書)の学者と考古学者で、アペル・アルの名が事実ヘブライ人の名であるということについての信頼性についての長い論争がありました。
これによって、ヘブライ人が第18王朝の間にエジプトにいて、何人かエジプト人化したものが州で高官の地位についたという印象がつくられました。
アペル・アルの墓で見つかったすべての遺物――棺、ミイラ、墓の壁に刻まれたものなど――が当時のエジプト様式と一致していることを強調することは、重要なことです。アペル・アルのポートレイト、服、装飾品などでさえ、純粋に古代エジプトのものです。
これは事実、すべて真実であり、本当のこと以外に何もありません。
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興味深い記事だったのですが、
また訳が怪しくてすみません。
訳が間違ってなければ、少なくともザヒ・ハワス博士は
メンフィスにアテン神殿があったと言っているのですよね……?
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ザヒ・ハワス博士は
11月1日の記事によると
エジプトの文化副大臣に任命されたそうで……(あれ、訳ってこれでいいのかな)。
エジプトの法律で、
ある役職に一定期間勤めたら退職しなくてはならないという決まりがあるため、
来年の5月にはSCA長官を退く予定だった、とあります。
(下記のURLより)
http://drhawass.com/blog/dr-hawass-named-vice-minister-culture-egypt
考古学の経験のない人が長官の座について、
仕事を引き継いでくれないのではないかと懸念していたけれど、
副大臣になったら、退職期限とかないので、来年辞めたりしなくていいということだそうで。
SCAって文化省の下にあるんでしょうか、
とにかく、これからも変わらないと考えていいのかな……?
●サッカラの復旧
http://drhawass.com/blog/restoring-saqqara
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サッカラに行くといつも、私は階段ピラミッドを見たくなります。
ですから最近訪れたとき、SCAがこの遺跡のあちこちで復旧作業をしているのを観察できて、嬉しかったのです。
階段ピラミッドは、第三王朝のジョセル王の治世に建てられました。
この印象的なモニュメントの設計者は、大臣イムホテプでした。
しかしながら年月が一部を損失させており、この遺跡を保護するために復旧作業がはじまりました。
フランスのエジプト学者、ジャン=フィリップ・ロエールは、長年この遺跡の復旧作業に携わっており、近年のSCAのプロジェクトはこれを引き継いだものです。
階段ピラミッドの北側はすでに綺麗に復旧されており、今われわれはピラミッドの南側、状態のよくない場所での復旧作業を行っています。また近い未来、復旧に備えて、ピラミッドの西側(居住区のこと?)を取り除き発掘する計画でいます。
階段ピラミッドの中の、ジョセル王の埋葬室もまた破損しており、入るのは非常に危険です。われわれは、それを保護するためには天井と壁を支える足場を構築するしかないと決定し、イギリスのチームに支援を求めました。
王の石棺を取り除くつもりはありませんが、一度、埋葬室から出してその周りを修復するつもりです。
ジョセル王のピラミッド複合体の一部として、ピラミッドに関連した、「南の墓」と呼ばれる謎めいた建造物があります。
エジプト学者は一般的に、ジョセル王は彼のピラミッドに埋葬されたということで合意していますが、ピラミッドの真南に、王の図像を含むすべての王家の墓の特徴を備えた、もうひとつ別の墓があるのです。
「南の墓」の埋葬室は階段ピラミッド内部のものとよく似ていますが、ずっと小さいです。
この墓は、カー(王の霊)の象徴的な墓だとか、セド祭(王の統治を祝う祭典)で宗教的な役割を担っていたのだろうと考えられてきました。この墓は、ピラミッドの埋葬室よりも損失が少ないのですが、回復する必要がありました。われわれは今それを――ジョセル王の葬祭複合体の特徴であるユニークな青いファイアンス・タイルの壁も含めて、保存するために作業しています。
われわれは今、サッカラのセラペウムも復旧しています。
セラペウムは1851年にオーギュスト・マリエットによって発見され、聖なる雄牛アピスを埋葬するための一連の巨大な地下回廊で構成されます。
崇拝する動物を埋葬することは、プトレマイオス朝の末期まで、サッカラで非常に一般的でした。
われわれは12月にはセラペウムを一般に公開したいと考えています。
サッカラの遺跡は古代エジプト人にとって非常に重要で、多くのモニュメントが保存と復旧を必要としています。
古代エジプトの魔法を世界と共有できるように、SCAはこれらのモニュメントの保存に献身的です。
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今、南の墓の復旧作業中ということでしょうか?
青いタイルは、ピラミッド地下だけかと思っていたのですが、
南の墓の埋葬室にも、同じようにタイルがあるのでしょうか。
一番最後の一文がどういう意味か分かりませんが……魔法を共有ってどういうことだろう?
そのままの意味(夢のような魅力、とかそういう意味?)なら、ザヒ博士らしいような気もします。
●スフィンクスの下を穿つ
http://drhawass.com/blog/drilling-under-sphinx
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近年、地下水位の上昇が、ギザを含め多くのエジプト上の遺跡やモニュメントを脅かしはじめています。
地下水位を検査し危険度を認知するため、ギザの大スフィンクスの下に穴が穿たれました。
2008年のはじめ、SCAはカイロ大学の考古学及び環境技術センターと協力し、最近になって劇的に上昇した下水位を測定するために、スフィンクスの下の一連の穴を穿ち始めました。さらにわれわれは遺跡を保存するために、地下水をスフィンクスや神殿から汲みあげるようなシステムを実装しました。
穴を空けている間、われわれはどれだけ地下水を吸い上げているかを示す石灰石のサンプル(石の質に影響を及ぼす)を回収しました。
このプロジェクトは、
スフィンクスの下に秘密の通路や隠し部屋が存在するといった推測をテストする、良い機会になりました。
かつて人々は私に、スフィンクスの左足の下部に何か隠されていないか見るための許可を、終始求めてきていました。しかし今、われわれは保存のためにスフィンクスの下に穴を開けています。
この、左足の下に開けた穴は、スフィンクスの真下10メートルまで達しており、地下水を調べるためカメラを入れた時、隠された部屋などは見つかりませんでした。これが、そういった推測を休止させる助けになればと思います。
今、このプロジェクトによってスフィンクスのミステリーは終わるだろうと思われるでしょうが、私は、このモニュメントは常に謎めいているものだろうと思っています。
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あれ。同じようなことを何度も訳してすみません(汗)。
●ミイラの発見と作り方(動画あり)
http://drhawass.com/blog/video-beautiful-mummy-found-saqqara
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数ヶ月前、サッカラで作業していたときのこと、
私は埋葬質に入りこの美しい、そして謎めいたミイラに遭遇しました。
私たちが発掘していたその墓は古王国時代、約4200年前に位置づけられます。そのため、この墓から後代の――2000年ほど前(746~336BC)ミイラが見つかったというのは、非常に面白いことです。
これは典型的な後代のミイラの美しい例で、このこ王国時代の墓で見つけたことに私はとても驚いています。
ミイラ化は古代エジプト人にとって重要な信仰上の様相でした。というのは、それは彼らが来世をおくるのを支援したからです。よって私は、皆さんがその目的とプロセスの方法を知ることを重要と考えます。
一個人がなくなると、その身体は洗われます。それから、腹部を切り開き、内臓を取り出し、それらをナトロン(塩のような鉱物で、水分を取り除く)の中におきます。臓器が乾燥したら、カノポス壷に入れます。
伝統的に、カノポス壷には四つあり、それぞれがホルスの四人の息子たちのうちひとつで装飾され、特定の臓器を収容します。
肝臓は、通常人の頭で表現されるイムセティに結びつけられ、肺はマントヒヒの頭部をしたハーピの壷に入れられます。ドゥアムテフは胃を守る神で、通常ジャッカルの頭で表されます。鷹の頭をしたケベフセヌエフは腸の入ったカノポス壷を飾ります。
古代エジプト人は心臓を死体に残していました。
彼らは心臓を、来世にも死者を助ける知識の源であるとみなしていたのです。
しかしながら、脳は損害を受けやすかったので、摘出していました。
脳を取り出すのに、古代エジプト人は金属の棒を鼻の穴に差し込み、脳の物質をかき出しました。
内臓を取り出したあと、身体は日にちの経ったワインで外側も内側も掃除されたでしょう。
なぜ古代エジプト人は、ミイラ化にこれほどの労力を費やしたのでしょうか?
それは、彼らが来世を信じていたからです。
身体が墓にある間、それは永遠に保存し保護する必要があり、保存するために、ミイラ化するようになったのです。
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古王国時代の墓から!
掘ってると見つかったから便乗しちゃったということなのでしょうか?
映像で出てくるミイラ(包帯を解いたヤツ)は別のものですよね?
見つかったものは、きっとまたCTスキャンするのじゃないでしょうか。
映像で示された、髪がふさふさのミイラは誰なんだろう……。
それにしても、ワインで綺麗にしてるとは知りませんでした。
お酒だから、匂い消しには良さそうですよね。あと消毒かな?
●ダハシュールのピラミッド3:黒のピラミッド
http://drhawass.com/blog/pyramids-dashur-3-black-pyramid
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ダハシュールにあるアメンエムハト3世のピラミッドは、その暗い色のために黒のピラミッドとして知られています。
黒のピラミッドは、ダハシュールの屈折ピラミッド・赤のピラミッドほどは知られていません。というのは、それが崩壊寸前であるため、観光客には閉じられているからです。
アメンエムハト3世はは第12王朝の6番目の王で、センウセレト3世の息子です。彼は46年間(1859~1813BC)統治し、その治世はエジプトでかなり平和で成功した時期として知られています。
アメンエムハト3世は、その長い治世の中で二つのピラミッドを建てています。彼は治世のはじめに、第一のピラミッドをダハシュールに構築し始めました。彼は先祖の記念碑に近づけたいと考え、よってスネフェルの屈折ピラミッド付近、ダハシュールの南に、彼のピラミッドを建てたのです。
黒のピラミッドは、ダハシュールにある、800年も前に立てられたスネフェルの記念碑とは、異なるピラミッド建設の時代に属します。
中王国時代、ピラミッド建設の復活が起こりました。中王国時代のピラミッドの設計は古王国時代の対応物よりずっと複雑です。彼らは盗賊らを妨げるために、おびただしい数の通廊や階段、部屋を組織しました。当時の建築家はまた日干し煉瓦でピラミッドを建設し、白い石灰岩で化粧仕上げをすることをはじめました。
黒のピラミッドもこのような方法で作られましたが、石灰岩は中世に遺跡から持ち出されてしまいました。外側の石灰石による分厚い化粧仕上げを失ったので、ピラミッドは崩壊し始め、こんにちでは元の栄光を失った状態で見えるのです。
黒のピラミッドの設計は、王に加えて二人の王妃のためのいくつもの通路と部屋があり、大掛かりです。
ピラミッドは、東の端の南側と、西側の、二つの入り口があり、内部へと続く階段を伴います。東の階段は、一連の通路、小部屋そして控えの間を通った先に、王の埋葬室へと続きます。それらは全体の南東部分の真下に広がっています。
西の階段は、南西部分の真下に2セットの通路と部屋に分かれてあり、ひとセットずつがそれぞれの王妃のものです。
ピラミッドの建設がほぼ完成するというころに、アメンエムハト3世の建築家は構造上の問題に気づき始めました。
ピラミッドはそれ自身の重みで崩れかかっていたのです――壁や天井は押し下げられ、戸の枠が曲がってきたのです。そのため労働者たちは日干し煉瓦と杉の角材を用いて、急いでそれを強化しました。
彼らの迅速な思考はピラミッドがすぐ崩壊してしまうのを防ぎましたが、そこを王の埋葬地とするのは止めなければなりませんでした。
アメンエムハト3世は、新しいピラミッドの位置にハワラ地域(カイロの南、ファイユーム地方の近く)を選びました。
ダハシュールの遺跡は19世紀の間、エジプト学者から多くの注目を集めました。
1837年、ジョン・Shae・ペリングがスネフェルのピラミッドを両方、調査しました。
1894~1895年、ジャック・ド・モーガンは中王国時代のピラミッドを調査し、古代の盗賊たちが見落とした美しい宝石の隠し場所を発見しました。
近代的な科学的発掘は1951年、アフマッド・ファクリが屈折ピラミッドを調査したときに始められました。この遺跡での作業は、カイロにあるドイツ考古学研究所と、ニューヨークのメトロポリタン美術館によって続けられています。
私は黒のピラミッドを一般に公開したいのですが、まだ入るのには問題があり、もっと保存と復旧の作業が必要です。
1975年に私がそこを調査するために、Dieter・アーノルドを訪問したことを覚えています。ピラミッドに入る前に、内部で迷子にならないように、私は労働者の足をロープで結びました。ピラミッドの内部は複雑で、多くの通路と廊下のために容易に道を見失います。
これら中王国時代のピラミッドは、盗掘者を防ぐためだけでなく、おそらくオシリスが埋葬室に住まうという信仰の表れから、これだけ複雑に設計されたのだろうと考えています。多くの部屋と通廊は別の世界への入り口を象徴し得ます。
この魅惑的なピラミッドに入る驚きを、早く皆さんに経験してもらえるようにするというのが、私の願いです。
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「オシリスが埋葬室に住まう」
「多くの部屋と通廊は別の世界への入り口を象徴」
というのが、面白いですよね。
なんだか、門の書とか、そういうものを想像してしまいます(新王国時代のものだけど……)。
ピラミッドの下こそがドゥアトだ、ということなのでしょうか。
たくさんの部屋、体験してみたい……けど、どんな対策をとるんでしょうね? 普通に入ると、私なんかきっとすぐ迷子になります(笑)。
※一単語の、でも大きな(苦笑)ミスがあり、修正しました。すみません。
頭のBしか同じじゃないのになんという勘違い(汗)。