古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
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●セネトについて
死者の書や墓壁などに描かれる盤上ゲーム。
先王朝時代から埋葬品としてお墓に入れられているものが発見されているが、
宗教的な意味合いがつけられたのは第18王朝ごろではないかといわれている。
(セネトという遊びが初めて知られるのは、第3王朝のジョセル王の書記監督へシラーのマスタバ墓に描かれていたことから。
初期王朝時代には既にセネトボードのヒエログリフが記されているので、ずっと古くからあると考えられている。)
セネトは「通過」の意。
二人用のゲームで、戦略性と、運も問われたものと考えられている。
10×3の計30マスで、
駒は7個ずつ(5個ずつのものも)。
マスを「ペル(家)」と呼び、
長細い棒を四本投げ、表裏の組み合わせで目を決める。
マスに描かれるものは、すべて同じではないが、以下のようなものが多い。
(数字は進む順番。逆S字に駒を進める)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
20 19 18 17 16 命 14 13 12 11
21 22 23 24 25 美 水 Ⅲ Ⅱ Ⅰ
命=アンク
美=ネフェルウ・・・良いマス
水=nの波線3本・・・悪いマス
Ⅲ=鳥や葦、または棒が、三つかかれる
Ⅱ=人や神、または棒が、二つかかれる
Ⅰ=隼、ホルスの目、太陽などひとつだけ、もしくは未記入
約80ものセネトボードが見つかっていて、
ときに他のマスに何かが記されているものもあったが、
右下の5マスだけは、初期のものから一貫して同じ意味合いを保ち続けてきた。
古王国~中王国時代までは、それらの5マスは単純に「良い、悪い、3、2、1」を表していた。
第18王朝に、セネトは大きく変化する。
それが単なる日常の遊びではなく、死後の世界を無事くぐりぬけるための必需品となり、
墓壁に描かれたり、埋葬品として納められるようになった。
第18王朝の終わりごろには、多くのマスに銘が描かれ、より複雑で象徴的な意味を持つようになった。
セネトゲームのボードの裏に
3×11のマス(?)が見つかることがあり、セネトの原型かもしれないといわれている。
30マスというのはひと月を表しているように思われる。
セネトのボードの裏側が
「20マスゲーム」のボードであることも。
こちらは後に東から入ってきたものであるらしい。
遊び方はいろいろ推測されているが、確かなことは分かっていない。
***
参考:
http://gamesmuseum.uwaterloo.ca/Archives/Piccione/
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/games.htm
http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/furniture/senet.html
●クフ第二の船と5つのボート穴
http://www.waseda.jp/prj-egypt/sites/Khufu-J.html
早稲田のサイトで日本語のものがあったのでリンク。
でもこのサイトは2003年12月25日が最終更新となってます。
--------
・1987年2月と9月、電磁波レーダーによる地中探査により、「第一の船」同様の穴に木材反応を確認。
(早稲田隊)
同年10月、石灰石の板に穴を開け、ファイバースコープで中を確認
(アメリカ隊-ナショナルジオグラフィックによって組織される国際的チーム)
・1992年12月-1993年1月、その穴にマジックハンドを挿入、木片の採取に成功。
(早稲田隊)
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このサイトにははっきりと
「古代エジプトでは王の葬祭に伴い、船を捧げる習慣がありました」と書いてます。
もう少し詳しく知りたいのですが……。
第一の船には、
どこにどの木が継ぎ合わされるのか、全部ではないが、ヒエラティックを多数記述しているとのこと。そのヒエラティックは二種類あるようです。
面白いですね、知りませんでした。
TVでも、そこを時間をかけて説明してくれればいいのに。
*その他のサイトからつまみ食い*
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004631537
これによると
東西(第一、第二の船)の穴は同時に発見されていたが、
西側のものは30年間手付かずのままだった、と。
http://weekly.ahram.org.eg/2008/908/he1.htm
この記事(上記リンク先)はけっこう詳しいです。(Al-Ahram)
第二の船の穴には、外の空気が入ってきてしまい、昆虫による害が出た、と書いています。
1992年に、早稲田隊がそれらを殺虫したが、水が(第一の船の博物館から)漏れてきて、木材の一部分に影響を与えたため、急いで研究を進めなくてはならなくなったと言います。
エール大学のエジプト学者、ジョン・ダーネルによると、
第二の船についての新しい研究は、船の重要性についてのブランクを埋め、それらの船が実際にナイル川を通ったか、純粋に精神的な重要性をもって埋められたのかを、判断するのに役立つだろうと考えられているようです。
(実際使われたかどうか、がポイントなんですね)
第一の船について、ジェドエフラーのカルトゥーシュ18個を含む銘が穴の中のあちこちにあった、とのこと。
後継者が船を埋めたと言うことは、この船が葬儀に用いられたと言う説をより説得力のあるものにします。
◆クフ王のピラミッド付近に開けられた、5つのボート穴:
http://weekly.ahram.org.eg/2008/908/he1.htm
(Al-ahramの同じ記事より)
クフ王のピラミッド複合体からは5つのボート穴が見つかっており、
ピラミッドの東部の側に、細い船頭と船尾をもつ船の形をした穴が3つ、
残り2つは、南側にあって、
四角形の形をしており、木造船の全体を分解して収納するために、切断されている。
東部のもののうち2つは、現在、空。
それらは単純化した屋根を構築するため、幅を狭めているようなので、その上に石灰岩の板で覆いをしていたと考えられる。
イギリスの考古学者フンダース・ピートリーは、南の溝の端を覆っていた屋根ブロックを発見したが、その幅に板をかけるのには支柱が必要であったため、これらは塞がれていなかったと考える学者もいる。
3つ目のボート穴もまた空で、参道の北端上部(葬祭殿のちょうど入口)に位置している。
それらは凸面の床(?)をもち、18段ある古代の階段を通ってアクセス可能。
これらの穴は、おそらくかつてボートが置かれていただろうと思われるが、実際に置いたというよりシュミレートしたのではないか、と推測する学者もいた。
しかしジョージ・ライスナーが参道脇の第3の穴から、縄と金メッキの欠片を発見し、
内部にかつて船が置かれていたことが確証された。
南側の2つの穴は、無傷の船が含まれていた。
マーク・レーナーによると、この2つはある重要な面で他の3つと異なっている。
それらは長く、細く、そしてボート型というよりも四角形に近い形をしていること、そして、本物の船を分解して入れていたということ。
穴は、それらの一部がピラミッド南側の周壁(第4王朝の終わりごろに構築)の下にあったという事実より、遅くとも第4王朝の最後までには構築されていたと言える。
***
まとめると、
クフ王の船(分解されており、復元されたもの)の意義については、3つの説が提唱されており、
・一つ目は、、ヤロスラフ・チェルニーらによって提唱されたもので、
5つのうち4つが、4つの方角にそれぞれ王を運ぶための儀式用のもので、
1つが、実際王の身体がギザへ運ばれるときに用いられた、というもの。
・二つ目は、第一王朝のマスタバに関してウォルター・エメリーが提唱したものが、エジプト学者セリム・ハッサン二よって採用されたもので、
それらは太陽の船であり、その船によって王がラーを訪問するか、または彼が空を航海するのに用いられるというもの。
・そして三つ目は、アブデル-モネイム・アブー・バクルによって提唱され、
船は王の生涯において、巡礼などに実際に使用されていた、というもの。
船が水に浮かべられたかどうかについては、
湿ったあと乾燥したと考えられる、縮んだロープを証拠としていますが、
これだけではなんとも、ということらしいです。
それから、他の三つ(正確には、二つと葬祭殿そばの一つ)と、大ピラミッド南側にあった二つ(船が実際に見つかったところ)は、穴の様子がどうも違うということ、
でも、どの穴も船が置かれてあったもので、
船が見つかった二つも、遅くとも第4王朝の終わりごろまでに作られたもので、ずっと後に埋められたものとは言えない、ということですね。
謎ですね~。
●クフ王の太陽の船についてのまとめ
主に、第一の船について。
◆発見:
1950年、考古学者であり建築家のKamal el-Mallakhカマル・エル=マラクがギザで考古物調査員として作業していたとき、
大ピラミッドの南面に、一対の長く狭い穴の、端と端を結んだ、細いしっくいの線があるのを発見した。
当時そこは、観光客用の道路を作るために片付けられていたが、
さらに掘り進めると、41もの巨大な石灰石の板で覆われ(それは東側のもので、西側のものは40の石灰石の板が覆っていた)、その石うち一つに石工の印とジェドエフラー(クフの後継者)のカルトゥーシュが刻まれていた。
この下を調査するべきだ、と上司を説得するのに四年かかり、
1954年5月26日、彼はついに穴に下りる。
中はヒマラヤ?スギの甘い香りで満たされていた。
たいまつと鏡を使い、彼は解体された船のオールをフルサイズで見た。
穴は空気が薄く、見たところ船はかなりよい保存状態にあった。13の、層に近い状態で丁寧に積まれており、船の索具やマットのロープなども備えられ、すべて揃った状態だった。
布とそれを覆ったマットを補強し、それから木のひとかけらずつを穴から取り出すという大変な作業の後、
船の再建は1958年Hag Youssef Moustafaに率いられて行われ、
完成までに10年以上の月日を要した。
3つの船の穴が空の状態で見つかっており、四つ目が1954年に発見。これがクフ王の(第一の)太陽の船と呼ばれるものだった。
また、5つ目の穴は1987年、ドリルで穿った穴にマイクロカメラを挿入し、もうひとつのボートが厚い石灰石の板の下にあることが確認された(第二の太陽の船)。
*
◆第一の船の概観:
クフの太陽の船は、第4王朝以降に見られる絵とよく似ている。
パピルスの形を模した船の形は、聖船『wiaウィア』や太陽の船を連想させる。
推定45トン以上、長さ43.3メートル、幅5.9メートル。
1224もの固体をパズルのようにつなぎ合わせるようになっており、釘などはいっさい使わず、板張りは開けられた穴に植物の繊維で作ったロープを通して固定する。
木は水を吸って膨張するので、水に浮かべれば隙間が閉じ、水の浸入を防げると見られる。
左右に5つずつの長いオールと、
船尾の舵取りのためのオールが一対。
閉じられた客室は板張りされ、ヤシ(またはパピルス)型の柱頭がある。長さは9メートル。
客室の正面の開いた天蓋(12のポールで支えられている)には、布かマットがかけられていたと思われる。
手前にある小さな小屋には、船長か操縦者が使用したのだろう。
船尾はパピルス型。
川の航海に適当な構造で、帆は備えられていない。
船は輸入されたレバノン杉から構成されると、しばしば言われているが、
ある学者はそれがエジプト原産の木、おそらく松ではないか、と指摘している。
アカシアをも使用しているといわれている。
*
◆船の意義:
クフの太陽の船と呼ばれるこの船の意味については、まだ議論がなされている。
船が水に浮かべられ使用された痕跡がある、と主張する学者もある。
クリスティン・ホブソンは、「船は実際に使用可能ではあったが、長距離の航海には向かない。公用船であり、クフ王が生前か、死体防腐処理し埋葬する前に、彼の身体をギザまで運ぶために使用したのではないか」と指摘する。
ザヒ博士は穴の中に木材(杉とアカシア)のかんな屑があったことを指摘。
この穴の近くで船が作られた可能性が高いとし、
船を埋めたのは古代エジプトの信仰と習慣に基づいたものであり、王の魂を天国へと運ぶ役割をもっていた、と主張している。
ただしこの穴に埋めるために、わざわざ船を解体せねばならなかったため、この穴はこの船のためにあけられたものではない、という指摘もされている。
正確には、まだ分かっていない。
*
◆その他の船の発見:
エジプトでは今まで、いくつか古代の木製船と据え置台が発見されている。
1893年、Jaques de Morgan discovered ャキュース・デ・モーガンはダハシュール、中王国時代のセンウセレト3世のピラミッド付近で、6隻の船を発見。
1987年、大ピラミッドの西側のボート穴が検査され、第二の船の存在を確認。
この船は穴の中に残し、完全な状態で保存しようということになった(2009年2月25日の記事)。
1991年、アメリカの考古学者デヴィット・オコナーは、アビドスにある第二王朝カーセケムウィの葬祭周壁の近くで、12隻ものボート穴を発見。
ただし最近の専門家による調査で、この船は周壁の建造よりずっと後の時代に置かれたことが分かった。
クフ王の船ほど保存状態がよくはないが、どの穴からも木造船の遺物が発見された。
おもしろいことに、それらの船は日干し煉瓦で満たされ、それぞれが船の形をしていた。
エジプトでは木材が貴重な品であったと考えられているため、この発見がエジプト史の初期の国力と、他国との関係に、多くの洞察を与えることが望まれている。
また2000年ごろにはさらに2隻の船がアビドスで発見され、
合計14隻の船が、クフ王のものより少なくとも300年はさかのぼると考えられている。
***
画像付きの解説
www.bluffton.edu/~sullivanm/egypt/giza/boat/boat.html
より詳細な内容・細部も分かる画像付き(ブログ)
http://egyptsites.wordpress.com/2009/02/25/the-solar-boat-museum/
板の接合方法、イラスト付き
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/shipconstruction.htm
太陽の船と葬儀の船について
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/solarships.htm
******
他にも穴が見つかっていること(中は空だったこと)は
もう少し調べてみたいです。
そこに船があった可能性はどれくらいだろう。
穴が小さくて解体しないと船が入らない、というのも気になります。
カーセケムウィの葬祭周壁ちかくで見つかったものは、第二王朝より後とはいえクフ王より前の時代、ということでしょうか。
だとしたら、そのときは(日干し煉瓦を使ってでも)船の形をそのまま埋めてるんですよね。どういうことだろう。
解体する必要性は、気になる点ですよね。
船が二つでなければ、『太陽の船』とは言いづらい気がします。
とはいえ、太陽神と取り巻きの船、とも、考えられないことはない気がしますが……。
デンデラのハトホル神殿の天井に、星の神として船に乗った神の図がなかったですっけ……。
この、クフ王の船、
ウィアという聖船もですが、
「マア」と読むヒエログリフ(鎌)の形に似てますよね……?
あの曲がりようは、機能的には無意味と思うんですが……どうだろう。
あ! 先史時代に描かれていた船の形も、こんなふうに曲がった感じなんですね。
パピルスで作った舟の場合、機能的に必要なのかな。
木製の船には、必要ない気がしますが、昔の形をそのまま表現してると言うのは、ありえますよね。
どっちにしても、ただの『川舟』ではない、
宗教的な(しかも葬送に関する)意味合いは持っていそうですよね。
第二の船は、穴の中で保存しようという話は……?
●オシリス神と柳の木
オシリス神と柳の木について調べてみたこと。
柳(willow)、古代エジプト名チェレト。
基礎知識=<オシリス神話>オシリス神の遺体を収めた棺はナイルに流された後、柳の木がこれを隠し、後に王宮の柱となったものを、イシスが取り戻しに行った。
****
①
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/botany/willow.htm
・柳は、木材として家具やテントの柱、道具の取っ手にされた。
・枝は長細くしなやかなため、鞭にされていた。
・柳のカゴ細工は、比較的少数だった。枝編み細工はローマ時代から現れ始めたもの。
・葉、種、樹皮などが医療に使用された。
・花輪とともにミイラの棺を飾った。
気になるのは右上の画像。
Apparently a willow tree, tomb of Hu
The phoenix, soul of Osiris, is sitting on one of its branches.
Source: Ludwig Keimer, L'arbre tjeret est il reellement le saule egyptien?, BIFAO 31 (1931)Huの墓にて 明らかに柳の木が描かれ、
オシリスの魂であるフェニックスが枝のひとつに止まっている。
Huの墓について調べがついてないです。
また、以下のような記述も。
In mythology willows do not figure as prominently as sycamores or ished trees, though in the Heliopolitan tradition it was the primordial tree on which the sun rested in the shape of a bird at the beginning of the world. The Metternich Stela makes a connection between the tr-tree, apparently the willow, and the benu bird:
You will not die from the poison's burn, for you are the great phoenix who was born on the branches of the tr-tree in the princely house of Heliopolis.
After a French translation in Ludwig Keimer, L'arbre tjeret est il reellement le saule egyptien?,BIFAO 31 (1931), p.190
神話においてヤナギは、シカモアやイシェドの木ほど顕著に図像化されていません。ですが、ヘリオポリスの伝説に、それは世界のはじめ、太陽が鳥の姿で休む原初の木であるとされました。
メッテルニヒ・ステラはtrの木(明らかに柳の木である)とベヌ鳥の間に繋がりをみせます。「あなたは毒の痛みで死ぬことはないでしょう。なぜならあなたは、ヘリオポリスの宮廷にあるtrの木の枝の中に生まれた偉大なる不死鳥なのですから。」
メッテルニヒ・ステラ(第30王朝・メトロポリタン美術館所蔵)の画像はこちら。
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-EJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy5tdXNldW1zeW5kaWNhdGUuY29tL2l0ZW0ucGhwP2l0ZW09NzQxNQ==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
他には、
It was sacred to Osiris and gave shade to his coffin while his soul rested on it in the guise of the phoenix [Lurker, p.225]. In some versions of the myth it was the willow which grew around the coffin protecting it, in others it was the persea.
それはオシリスに捧げられ、彼の魂がその木にフェニックスの外観で休む間、彼の棺を隠しました。神話のいくつかのバージョンで、棺の周りに茂り隠したのはヤナギとされ、また別のいくつかでは、ペルセアとされました。
デンデラの神殿には、以下のような銘文があるそうです。
The names of the sacred trees are jS.t, kbs, tr.
jS.tとkbsは何をさすのかはっきりしませんが、trはヤナギであると考えられるそうです。
同じデンデラに、「ヤナギ立ての祭」についてを記した壁画があり、
王はオシリスに向かいヤナギの葉つき枝を捧げています。
「ヤナギ立て」祭は、神々が王に豊作を約束するための祭で、
新王国時代から、それはアメン神の信仰に取り入れられた、とあります。
Erecting the willow. Formula:
I offer you the willow. I erect before you this branch of the temple of the sistrum. One makes you the feast of drunkenness in the place which you love with the very great of your majesty. I have erected for you that which belongs to you at the beginning of the first month of the season of summer, and you enjoyed it.
Hathor temple at Denderah
After a French translation in Ludwig Keimer, L'arbre tjeret est il reellement le saule egyptien?,
BIFAO 31 (1931), p.211
「ヤナギ立て」の祭文:
私はあなたにヤナギを捧げます。私は、シストルムの神殿のあなたの前にこの枝を立てます。人はあなたの偉大なる権威のために、あなたの好む場所で饗宴を開き酔わせましょう。私は夏季の第一月に、あなたのためにあなたに属するものを立たせ、あなたは喜ばれました。
***
②
http://www.touregypt.net/featurestories/treegoddess.htm
③
http://www.egyptianmyths.net/tree.htm
の両方に、
ペルセア=ホルス、
シカモア=ラア
ヤナギ=オシリス
ウプウアウト=タマリスク(ギョウリュウ)
と結びついている、とあります。
③によると、トト神とセシャト神がイシェドの葉に王の名と支配年を書き記し、永遠のものとするという有名なエピソードは
第18王朝の間に流行った表現だそうです。
柳の木についてもうひとつ有名なエピソード。
The willow tree was also sacred in Egypt as it was the tree that was said to have grown up around Osiris' leaden coffin in Byblos. Several towns had tombs that were said to hold part of Osiris' dismembered body. All of these had willow groves associated with them. It was said that the god's ba rested within these groves.
柳の木は、ビブロスにおいてオシリスの重い棺の周りで茂った木であるといわれたため、エジプトで神聖視されてきました。
いくつかの町は、バラバラになったオシリスの体の一部を埋葬した墓を持つとされていました。これらの町のすべてに、これに関連付けて、柳の木が植えられました。
この神のバー(魂)がこれらの木立で休むといわれました。
***
10/16追記:
オシリスの棺を隠したとされる木は、ヤナギ、ペルセア以外にもタマリスク(ギョリュウ)、ときにシカモアイチジクのこともあり、これと決まっていないようです。
また、プルタルコス著『イシスとオシリスについて』によると、
それは「ヒース(エリカ)の木」であったとされていますが、この木はエジプトにはあまりなじみがない木だそうです。
ヤナギは、現代のエジプトにも見られるらしいです。枝垂れ柳が。
柳がオシリスに結び付けられるのは、日本人的に妙に納得……。でも、柳が死者などと結び付けられるのは、日本やエジプトに限らず、あちこちにあるようですね。
(ご指摘ありがとうございました!)