古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
クフ王時代の商業パピルス発見
2013.4.11
◆【日本語記事】時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201304/2013041101087&g=int
(画像あり、カルトゥーシュに「クヌム・クゥエフ(クフ)」
◆ahram online
http://english.ahram.org.eg/NewsContent/9/40/69024/Heritage/Ancient-Egypt/Egypts-King-Khufus-harbour-in-Suez-discovered.aspx
(画像2種あり)
◆【フランス語】
http://prefixesmom.hypotheses.org/723
(場所について地図で説明があります。一目で分かる)
◆ Pierre Tallet教授の昨年の報告書(英語)
http://www.britishmuseum.org/PDF/Tallet.pdf
(自分まだ読んでませんが……【一緒に見つかった洞窟】というのがこの表紙の写真かな)
***
ahramのを訳します。
(ほぼ直訳ですみません)
*
フランス・エジプト合同発掘隊は
クフ王が統治していた時代、第4王朝の商業工を発見。
場所はスエズの180㌔南、ワジ・アル・ジャルフ(Wadi Al-Jarf )域。
紅海沖ワジ・アル・ジャルフ域のSuez-Zaafarana道の傍で、IFAO(French Institute for Archaeological Studies )によるフランス・エジプト合同発掘調査隊は、
これまで発見した中でも最古と思われる古代の港を発見した。港は第4王朝クフ王(ギザの大ピラミッドの建造者)の治世にさかのぼる。
この港は、シナイで採れた鉱物や銅などを輸出するための船が出る、重要な商業港のひとつであったと考えられている。石に碇が刻まれた器のコレクションも、港の別の波止場で発見された。
考古大臣モハメド・イブラヒムは
40ものパピルスが収集されたと発表。
クフ王の治世第27年目の、人々の日常生活についてが詳細に描かれたものも発見された。「これらはエジプトで発見されたパピルスの中でも最古のものです」
と、イブラヒム氏は断言する。これらのパピルスはさらに、
この港での月ごとの労働者数と彼等の生活の詳細など、
古代エジプト人の日常生活について多くの情報をもたらすうえでとても重要なパピルスである、とイブラヒム氏。パピルスは既に研究と文書化のためスエズ博物館に移送されている。
フランスのエジプト学者ピエール・タレット(発掘調査隊のディレクター)は
パピルスにはこの時代について非常に多くの情報が含まれていると思われるため、慎重にに研究してゆく必要があると指摘した。
パピルスはさらに、当時生きていた古代エジプト人の生活の質、彼等の権利や役割など、我々がほとんど知ることのなかったことについても伝えていると思われる、とタレットは加えた。考古局の古代エジプト部門長官であるアデル・フセイン氏によると、
調査隊は労働者の住居跡を発見することにも成功しており、
この港と地域の商業的な重要性を(エジプトのほかの都市の中でも、また、諸外国の中でも)明らかにしているという。
入り口を石のブロックで塞いだ30の穴(cave)も発見されており、
塞いだ石の内側には赤いインクでクフ王のカルトゥーシュが記されている。
また船のロープやロープを切るための石の道具、木の遺物なども同様に発見されている。
***
なんだか久々の発見です!
写真を見るとパピルスの常態が驚くほどいいです。第4王朝とは思えないほど!
この時代の資料はかなりレアだと思うので、多くのことが明らかにされればと思います!
大発見ですね!!!
●アブ・ロアシュで第一王朝の船を発見
ギザの北東、アブ・ロアシュ(ラワシュ)で、
第一王朝の王、デンの船が発掘された様子!
長さ6メートル、幅150メートルの木造船(6×1.5メートル、としているものもあります。写真を見るとそれっぽいかも)。
板11枚で構成された船だそうです。繋ぎ合わせるためのロープを通す穴がたくさん見られます。
フランスの考古学チームによる発掘。
2012.7.25(水)
記事はこちら(英語です)↓
http://english.ahram.org.eg/News/48641.aspx
写真いろいろ(日本語です)↓
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2891608/9293312
デン王の墓は、もっと南の、アビドスにあるのですが
この船が「デン王のもの」とされる理由についての発表がまだありません。
(船の古さと、周りから発見されている遺物からの推測かも、という意見も…)
とにかく
発見されたあたりには、第一王朝のデン王や、アハ王の名が記された遺物がいろいろ発見されている場所だそうで…。
王だけでなく、貴族が墓の傍に船を埋めることはあったそうなので、
デン王に仕えた高官が、デン王から与えられた船を埋めたのかもしれないですね(詳しくは情報を待ちたいと思います!)。
写真を見ると、5000年前の木造なのに、なかなかきれいな状態です!
修復してから、National Museum of Egyptian Civilisation で展示する予定とのことです!
生活に船が密着していたというか
権威の象徴だったというか
船は、第一王朝の早いうちから、墓の傍に埋められてる証拠があるようで、
アビドスにあるデン王の墓にも、船が埋められた穴があったそうです。
船によって冥界に行く信仰だったのか、
あの世で生前と同じような生活をするために船が必要と考えられたのか、分からないですが…
っていうかここでは
「王の魂を死後の世界に運ぶため」としていますね。
気になるのは
AFP通信のほうで、この船を「solar boat 太陽の船」としていること。
たぶん、最近のクフ王の第二の船の話題に関連付けて
葬送の船→太陽の船!ってなったんじゃないかと思いますが
太陽の船って、太陽信仰からでてくるわけで
その太陽信仰そのものが、(はっきりとは分かっていませんが)第4王朝あたりに盛り上がるのを考えると、
それより数百年前の船にまで、それを当てはめてよいのかなーっていう……。
*
ついでに
「太陽の船」とはどういうものか。ということについて、
メトロポリタンミュージアム所蔵の模型があります。
http://metmuseum.org/collections/search-the-collections/100000480
中王国時代の模型ですが、これなら間違いなく「太陽の船」といえるそうです。
特徴は、
・神の旗標
・船首にかけてある布(上の模型では、左が船首です)
・真ん中あたりにある、「シェメス」サイン↓
だそうです。
だいぶあとですが、ラムセス六世の王墓の天井にある「昼と夜の書」の太陽船にも、船首の布が見られます。ないのもあるみたいですが…もしかして暗いうちに必要だったのかな?(夜と、早朝・夕方の船にはあるみたい?)
あ、これシェメスの図もありますね…物によって……。下の写真では、船尾の近くに、白で描かれています。
↓
(写真は仁田三夫氏『図説 古代エジプト2【王家の谷と神々の遺産】篇』河出書房新社p54より)
あと
第5王朝には太陽神殿の建造が盛んになりましたが
その復元(想像)図があります!
巨大な太陽先(模型)が神殿のそばにあったらしいのです。
(スライドショーです)http://www.reconstructions.org/mor/pages/frames/mor_slideshow/mor_slideshow_frame.html
第5王朝(太陽神殿建造期)は
大ピラミッドで有名な第4王朝と
ピラミッドテキストが書かれ出す時代の間です。
「古代エジプト」とひとくくりに言っても
宗教観は変わってきていて、それはアマルナ期だけではありません。
特に初期の、ピラミッドテキスト以前の信仰の形態がどうであったのかは、宗教文献がみつかっていないため不明な部分が多いのです。
ピラミッドテキストを見ると、オシリスとホルスの神話に加え、太陽神ラーの神話が出ています。
この時点で既に、後代によく見られるさまざまな神々の存在や役割が確認されるのですが(同じでないのもあります)、
この太陽神について、ホルス神やセト神のように先王朝時代から存在が確認されているかと言うとそうではなく、オシリス神についても同じです。
そういうわけで、「太陽の」船、といえるのかどうか、とても疑問に思います。
もちろん、太陽神の乗る船に同乗して天に行く、という信仰が、かなり古い時期からあったかもしれません。
ただ、今のところ、はっきりと証明できるところはないし、
もし昔からあったとして、第4王朝に突然盛り上がるのはどうしてかな?と思います。
ま、細かい話なんですけどね!
第一王朝頃から太陽信仰(もしくはその原型)があったのかどうかは、個人的にとても気になります!
それが分かると、大きいな、とは、思うのですが……(あまり期待はしてません・汗)
*
いやー。
太陽の船って、なんなんでしょうね?
私は、この布がすごく気になってますが
シェメス・サイン(太陽神の「従者」の意味だとか)も気になります!
まだまだ、知りたいことが山のようです…。
とりあえず、この発見された船が太陽船でなくても(可能性は低いと思うんですが)、
第一王朝の船なら、貴重ですよね!
●第一中間期~中王国初期の墓発見
2012年5月28日
【調査報告のPDF・画像あり】
http://www.dayralbarsha.com/sites/drupal.arts.kuleuven.be.barsha/files/Dayr%20al-Barsha%20Press%20Report.pdf
・発掘隊:Harco Willems率いるベルギーのルーヴェン大学の発掘隊
・場所 :デル・エル・バルシャDayr al-Barsh?
(中エジプト、野ウサギの女神ウェネトの州、ヘルモポリスのあたりで、第一中間期の州候などの墓がある)
・時代 :中王国はじめごろ(BC約2040年)のもの。
・状態 :未盗掘ではなく、少なくとも二度は盗掘されている
そのため広大なダメージを受けたが、
それにもかかわらず、かなり多くの物が元あった位置に残っていた。
そのため、かなり興味深い葬儀にかかわる情報を読み取ることが出来る。
・墓主 :ジェフティナクト。おそらく州知事
発見は、よく知られている、中王国初頭の野ウサギ州(ウェネト州)統治者である知事「アハナクト」の墓(1891-92年に発見されていたもの)でなされた。
そこは1915年に、ジョージ・アンドリュー・ライズナーによって徹底的に調査され、州知事の墓(発見された美しい遺物は世界的に有名))がほぼ完全な状態で発見されている。しかし、ライズナーはアハナクトの墓の南西のシャフトを調査し終えていなかった。彼はそこが、彼自身がその場所に来たほんのわずか前に盗掘されたと察し、調査を止めた。
これ希少なチャンスに思われた。ライズナーはこの周辺の墓を徹底的に空にしてしまっていたからだ。
ルーヴェン大学調査隊は過去10年間、その既に空にされた墓を調査し文書化するばかりだったし、他のどこにも、このような墓が発見されるような機会はありそうになかった。ライズナーが、この墓を「盗掘された」と考えたのは正しかった。
シャフトを6メートル下ったところで、かき乱された物が見つかり(墓の壁を飾っていたいくつかの重要なレリーフ片を含む)、そこにはタバコの吸殻や20世紀初頭の日付のある新聞の破片が残っていた。
墓の備品と見られる大量の遺物もあったが、この墓のものかどうかも定かではないし、それらのほとんどが、ダメージを受けていた。
さらに、埋葬質は天井まで小石が詰まっていていた。推測だが、盗掘者が故意に小石を投げ入れたかもしれない。その過程で、木製の備品は壊れてしまった。
しかし多くの葬儀用の供物は盗掘者に気付かれなかった。墓は二度盗掘されたらしい。
一度目は古代に既になされれていた。当時、盗掘者は高価なものにしか目をくれなかったらしい。棺には金箔の破片が大量に見られ、おそらく他のものにも、金箔は用いられていただろう。
この最初の盗掘のあと、墓はどうやら開いたままの状態だったらしい。何年もの雨水が墓に流れ込み、石灰の屑と交じり合った。一度乾燥すると、この混合物は硬い石灰の厚い層だけを残していた。それらは19世紀後期に入り込んだ盗掘者にとっては床に見えただろう。
これらの盗掘者のせいで、棺や他の木製の道具は腐ったり湿気によって繁殖した菌の影響を受けていた。
ところが発掘者が埋葬室を空にしてみると、いくつもの葬儀用備品――アラバスター、ファイアンス、銅や陶器製の――が、石灰の厚い層に埋められるようにして、元あった位置に見つけられた。
発見されたものの中には、アラバスター製の模型の器、供物台、ヘッドレスト(枕)、ファイアンス製の神酒壷、そしてさまざまな銅製の壷、皿、そして模型のテーブルがあった。
そしてまた、今までは古代の描写の中でしか知られていなかったユニークな儀式用の道具が発見された。これらの道具の配置が、葬儀の流れを細部まで再現することを可能にさせる。
ここから想像される流れは、まずはじめに棺が埋葬室に置かれ、それから清めの儀式が執り行われ、その後供物の儀式が執り行われたのだろうということだ。
後者の儀式は描写やテキストでもよく知られているが、こういった儀式が地下の埋葬室で成されたことを示すと考えられる例は、初めてである。棺の遺物は状態が非常に悪く、調査は来年、修復保全し終えてからとなるだろう。
ただし、二つの重要な結論を既に出すことができる。
第一に、棺には銘が刻まれており、テキストによるとこの墓は「ジェフティナクト」という男のものであるということ。
これは重要なことである。なぜなら、アハナクトの墓の記述には、彼の父としてジェフティナクトという人物への言及があるからだ。これはおそらく、アハナクトが父親を自分の墓に埋葬したことを示唆しいている。
ジェフティナクトは第一中間期最後の、野ウサギ(ウェネト)州の知事として知られている。よって、その人物はここに埋葬されていると結論できる。第二に、彼の棺にはコフィンテキストが刻まれているということ。
このテキスト集は中王国時代の最も重要な宗教文書であり、それは古王国時代の王のためのピラミッドテキストと、新王国時代の有名な死者の書の、二つ結びつける形式をもつ。
中王国時代のコフィンテキストの伝統はここデル・エル・バルシャから始められたことは既に知られており、その最初の例がアハナクトだったが、今回の棺上に銘が発見されたことによって覆ったと言える。
この、ジェフティナクトの保存状態の悪い棺には、コフィンテキストの歴史にとって重要なチャプターが加わっている。中王国時代の最も初期のものの代表であると考えられる。
******
場所の名前とかよく知らなくて(笑)、この辺が「コフィンテキスト」の始まりとも知らなかったですが
コフィンテキストの「最古」かも、っていうのはおもしろいですよね!
あ、「典型」という意味で「最古」なのかもしれませんが……
「重要なチャプター」ってなんですかね、すごく気になります。オシリスの審判?
いろいろ興味深いです!
こういう、面白そうな発見があっても、
そのあといろいろ調査されるのに時間が(当然)かかって、追跡できないのが自分の残念なところです……(涙)
せめて銅製の、左下の、柄らしいものがL字型に曲がってるものの正体くらい知りたいところですが…。
なんか変わってますよね!?
……携帯用の扇?? なんちゃって。わかりません!
野ウサギ州、さすが、トト神の出身地ですよね。ジェフティナクト!
はじめの情報では、もうちょっと状態がいいものかと思ってましたが(それにしては画像が出ていなかった、その時点で怪しむべきだったな)
棺が映されないのは残念です。今どんな常態かちょっと見たかったかな……。
人型ではないだろうと思うです、長方形かな…。←想像するしかない悲しさ
あ、そうそう、ややこしいところがありますね。
【「アハナクト」の墓を調べていて、「ジェフティナクト」の墓が見つかる。】
なんというか、アハナクトのために作られた大きな墓の、これはおそらく床に竪穴を作って、(父)ジェフティナクトのための埋葬室を付属で作ったってことですよね。
自分の墓に、家族や兄弟を一緒に埋葬することがあるようです。
全部「墓」って言うからややこしいんですよね。しかもなんと表現しても、馴染みがないので想像しにくそうです(笑)。
http://www.egyptological.com/2012/01/tomb-k64-in-the-valley-of-the-kings-the-story-as-it-broke-7134
http://news.yahoo.com/rare-tomb-woman-found-egypt-valley-kings-153839689.html
***
2012年1月15日付の報告。
ルクソール西岸、王家の谷で新しい墓(KV64)が発見されたそうです。
そこから、
第22王朝(紀元前945-712年)の木棺が見つかり、
持ち主の名前はニヘムスバステト(ネヘメスバステト、 Ni Hms Bastet )。
カルナク神殿の「アメン・ラー高位神官の娘」であり、「アメン・ラーの歌い手」の称号を持っていました。
スイス人とエジプト人の共同チームがトトメス三世の墓(KV34)へ続く道を整備していたところ、偶然見つけたとのこと。
バーゼル大学の調査隊が、
クリーニングと同時に装飾の少ない、あまり研究されていない墓を文書化し記録する作業中、
どうも墓の入り口らしいものを二つ、見つけ、2011年12月に調査される予定だったようですが、
そのうちひとつは、放棄された墓か、近くのKV40のための保管庫ではないかと考えられていたそうです。
ところが、調べてみると、これは新しい墓だ、と。
木棺は黒く塗られ、ヒエログリフが書かれている様子。
横には彩色された木製のステラが置かれています。
ニヘムスバステトの棺は第22王朝のものですが
この墓自体は、第18王朝に作られたものであろう、と考えられているようです。
一緒に見つかったものからそう推測されるようですが、何が見つかったのか詳細については知らされていないようです。
墓は荒らされていない、完全な状態である可能性が高く、第22王朝のものとしてはとても珍しいとのこと。
棺の中にはカルトナージュのマスクと、そしてリネンにくるまれたミイラも、きちんと残っているだろう、と考えられています(重たいし…って)。
ニヘムスバステトという名はそんなに使われていたわけではないようですが、
初めて見る名前でもないようです。
第22王朝の「アメン神の第4の預言者」ジェドコンスエフアンクの、娘かもしれないとか
バーミンガム博物館のパディムウトの母親も同じ名前だとか
いろいろ考えられているようですが
今後の調査で明らかにされるかもしれません。
王家の谷で、王族以外の女性が埋葬されている例は非常に稀です。
ただし、第22王朝の「王族」の定義は非常に複雑であったため、彼女が王家の一員であった可能性も無いとはいえないようです。
「観光客の喜ぶ墓ではないが、考古学者の喜ぶ墓だ」
ということで、これから明らかになっていくことが楽しみですね!
●王が白冠を頂いて描かれた最も古い画の発見
2011.7.4 ※追記は一番下に
【画像あり】
http://luxortimesmagazine.blogspot.com/2011/07/oldest-depiction-of-egyptian-king.html
上記のページを軽く訳します。
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ザヒ・ハワス博士によると、
マリア・カルメラ・ガット博士(アスワン-コムオンボ・プロジェクトのディレクター)は
アスワンの北西、ナグ・エルハンドゥラブNag el-Hamdulabで
上エジプトの冠をかぶる王が描かれた最古の絵を発見しました。
※“再”発見、だそうです
この絵は、国家の式典の様子を描いたもので、第0王朝にさかのぼります。ハワス氏:
「この発見には多くの象形文字的な画が含まれ、
はじめに描かれたものは、別のの王朝時代で知られている王家の式典であることにまず間違いないだろう。
それは王が白冠をかぶり、ホルスの従者または国家の判事らと同行している場面である」
マリア・カルメラ博士:
「この発見は、アスワンのナグ・エルハンドゥラブの西岸でラビブ・ハバシ博士が発見した遺跡の調査内容を更新するか、完成させるものでしょう。
最新の研究では、その遺跡が第0王朝の、ナルメル王の墓(BC2960-2770)と同じ頃にさかのぼるとされているのです。
この発見の重要性は、
王に監督され同行するもの――二人の標章を運ぶ者と、一人の扇持ち、一匹のイヌ――を描いた、王先王朝時代の岩絵であるという点で
独特であるということです」
ナル・エルハンドゥラブの画と、
さそり王の棍棒頭、ナルメル王の棍棒頭そしてナルメル王のパレットに描かれた図には
かなり似通った部分が認められます。
つまり、
弓を踏みつけた男、地に横たわった捕虜をつかんでいる男の図です。
・・・・・
****
画像をもっとはっきり見たいですね。
線で起こしてくれるとありがたいです、特にPCの画面ではなかなか……。
発見されたばかりなので、これからでしょうか。
個人的には、標章の上にどんな図が描かれていたかがちょっと気になりますが
図の様子を見ると、あまりはっきり分からないかもしれませんね……。
とにかく
戴冠式の様子らしいので、図をよく見てみたいです。
素敵な発見ですね~!
古いもので、図があると、嬉しくなっちゃいます。
***
《追記》
似てると書かれているサソリ王やナルメル王の棍棒頭・パレットの画像
・さそり王の棍棒頭
http://xoomer.virgilio.it/francescoraf/hesyra/new/Scorpion.gif
・ナルメル王の棍棒頭
http://iteror.org/big/Source/images/NarmerMacehead_DrawnIfrah.png
・ナルメル王のパレット
http://www.unc.edu/courses/2005fall/art/080a/001/IMAGE%20BANK/images-early%20dynastic%20egypt/NarmerObverse.-web.jpg
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岩絵の
大きい画像ありました!
線に起こしている途中のものも!
http://www.egyptologyforum.org/bbs/Nag_el-Hamdulab.html
これからまた詳しく調査されるのだと思います。
詳細が分かったら、また…。
◆続きはこちらの記事に。
マリア・カルメラ博士のブログから。
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/202/
より細かい内容はこちら
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/203/