古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
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●ダハシュールの赤のピラミッド
http://drhawass.com/blog/pyramids-dashur-2-red-pyramid
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ダハシュールにある赤の(あるいは北の)ピラミッドは、スネフェル王の三番目の巨大ピラミッドの試みでした。
彼はすでにファイユーム・オアシス近くのメディウムと、ダハシュールには屈折ピラミッドとなったものを、建造しています。この時、彼ははじめから要領を得ており、また息子のクフがギザの大ピラミッドを建てるための道を開きました。
ピラミッドの建設者たちはそれまでメイドゥムやダハシュールで試みてきた構築から多くを学んできていました。そして今回、王のピラミッドは、メイドゥムのピラミッドや屈折ピラミッドより傾斜を緩くつくられたようです。そうすることで崩れにくくしたのです。
計画を立ててから、スネフェルの技術者は王の治世の30年目くらいから新しいピラミッドを建設し始めました。このとき、屈折ピラミッドでは作業を中断していました(スネフェルの作業員たちは仕事を終えた後にここに戻ってくるのですが)。
スネフェルはさらに、ピラミッドの東側に、河岸神殿だけでなく(これはまだ発掘されていませんが)、小さな記念神殿をたてました。彼の参道(通常は死体仮置き場と河岸神殿をつなぐもの)は、どうやら構築されていないように思われます。これらの要素は、時の経過とともにピラミッド複合体のスタンダードとなっていったのでしょう。
赤のピラミッドの入り口は、北側の壁の28m上方に見つけられます。ここから、狭いシャフトがピラミッドのなかを、地表面に着くまで62m下ります。ここから、水平のシャフトが、12m以上の高さの「持ち送り式」の屋根を持つ大きな部屋につながっています。さらに水平のトンネルが似たような持ち送り式の屋根をもつ部屋に続きます。この二つの部屋の主な違いは、第二の部屋の場合、次の部屋に続くトンネルは地表面ではなく、屋根より8m上にあるということです。
こんにち、訪問者はこの短い通路への木製の階段を上ることができます。うずくまって通り過ぎると、王の埋葬室にたどりつくのです。この部屋もまた持ち送り式の屋根を持っていますが、床は、財宝を求めた古代の人々によって剥がされていました。
幾人かの学者は、これがスネフェル王の最後の休息の場だったと信じますが、私は、彼は実際には近くの屈折ピラミッドに埋葬されていると信じています。というのは、彼の葬祭儀礼が彼の死後にここ(屈折ピラミッド?)で続けられていたからです。
私がギザでの考古物の長となったとき、私はダハシュールのこの遺跡を公開したいと望んでいました。私たちはこの願いをかなえるためにかなりの努力をしなければなりませんでした。なぜなら、この遺跡は警備上の理由で閉じられていたからです。しかしながら、しばらくのちに、私たちは一般の人たちにこの地域の公開を許可するようになりました。
この地域が非武装化されるようになったあと、はじめに公開しようと決めていた記念碑は、赤のピラミッドでした。わたしは、レイナー・シュターデルマンのそこでの発掘のために、このピラミッドに魅了されていたのです。そのため私は、この入口と内装を清掃し始めました。これはとても重要な仕事です。
プロジェクトが完了すると、我々は盛大な開催式を執り行いました。それはよき日で、あらゆる報道機関は彼らが見たものにまったく驚愕しました。よく覚えているのが、有名なTVの司会者が、彼はとても背が高いのですが、ピラミッドから出てきたときに歩くこともできなかったことです。というのも、彼は狭いシャフトでずっとしゃがんでいなければならなかったからです。
赤のピラミッドに入ることは、苦楽を備えた一つの冒険です。
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「corbelled」を、持ち送り式、と訳しましたが、
せり出し……とか、他に言い方があったかも……すみません。
ザヒ博士のサイトの、右下に、その図があります。よく見るやつですよね。
なのに、日本語でどう言われていたか忘れてしまってすみません。
●最古の染料
http://www.msnbc.msn.com/id/32362118/ns/technology_and_science-science/
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今日まで使われている色の、もっとも初期のものとして有名な例を発見した研究者によると、
4000年前エジプト人はアカネ染料(赤色色素)を作る過程をマスターしていたそうです。
ごく微細な量の染料からでも研究できる洗練された技術によって、メトロポリタン美術館のマルコ・レオナ氏は、古代エジプトの矢筒の革の破片に付着した色を分析することができました。
この色がアカネ染料だったという発見は、植物から染料を抽出し、それを色素に変えるために必要とされる複合科学の知識の、もっとも初期の証拠である、と、火曜の国立科学アカデミーの会報でレオナが報告しています。
この発見は今まで知られていたアカネ染料の使用より約700年も早いものになります。
アカネ染料は中世でもっとも人気となり、オランダの画家ヨハネス・フェルメールが多くの赤い色合いや艶出しに用いました。
「有機的な着色剤の使用法の写しは、貿易経路を追い、また考古学的なオブジェクト間の関係を識別し、偽物を検知し、芸術品に帰着する方法を提供します。」
とレオナは記しました。
レオナはラマン分光学と呼ばれる技術を洗練しました。それは光の散乱に依存します。その工程は、一般的にはアカネ染料やその他の染料にふさわしくありません。しかしレオナは発見物を増幅することができ、低レベルの化学物質さえ検知できる小さな金属粒子を使用し、結果を高めることができました。
アカネ染料を写すことに加えて、彼はイタリア・フィレンツェの1500年代初頭の画家フランチェスコ・グラナッチのワークショップから、『Saint John the Baptist Bearing Witness』(http://www.flickr.com/photos/peterjr1961/3448761019/)の絵画に用いられた赤がケルメス(ケルメスナラという植物に寄生するカーミンカイガラムシの雌から作る赤色染料)であることを突き止めました。
ケルメスは昆虫の体から取れる染料で、新大陸からコチニール(コチニールカイガラムシの雌から採る赤色色素)が輸入されるまでヨーロッパで一般的でした。
そして1150年~1210年に位置づけられるモーガン・マドンナの赤色はラック染料(ラックカイガラムシの雌から分泌される天然樹脂)であることが分かりました。それはアジアから始まり、おそらくイスラム教の商人によって南ヨーロッパに輸入されたのでしょう。
レオナによると、これは15世紀より前にヨーロッパの芸術でラック染料が用いられたことについて初めて文書化された例です。
彫刻ははじめプロバンスの堺にあるフランスのオーヴェルニュ地方で保管されただろう(そこは数十年後のラックの輸入の貿易記録がある)と記しています。
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ドレスの帯紐の赤はアカネ染料なのでしょうか。
アカネは根から朱赤~赤紫の染料をとるようです(それで茜=赤根)……。種類によって鮮やかさなどにも違いが出るとか。セイヨウアカネは赤が濃いとのことですが、エジプトではどんな茜が用いられたのでしょう。
花は赤くないですね。色がないというか。(白というより緑がかってます。小さいし)
http://www.ootk.net/cgi/shikihtml/shiki_1323.htm
この植物もあったのでしょうか。それとも根を輸入?
染料の話、もう少し知りたいなと思いました。
それにしてもカイガラムシばっかり……。
カーミンカイガラムシのカーミンが、赤色の名前の元だとかいう話があります。カーマイン、クリムゾンなど。
カーマインとクリムゾンは、イメージ的には違う色だけどなあ(後者の方が紫がかってる)……。
天然の色素は虫を使ってるからどうか、なんて話が時々取り上げられますが、
虫を使ってるからって何が「どうか」と。
植物ならよくて虫ならダメなのかな……。
あ、でも気持ちは分かります。私も虫さんと仲良くしたいわけではないので……。でも、それとこれとは別ですよね。
●ダハシュールの屈折ピラミッド
http://drhawass.com/blog/pyramids-dashur-bent-pyramid
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第四王朝のスネフェル王は一生のうちに三つの記念碑的なピラミッドを建造し、ファイユームのセイラに四つ目のより小さな階段ピラミッドを建てました。
メディウムのピラミッドをあとにして、彼はロイヤル・コート(王の宮廷)をサッカラのちょうど南にあるダハシュールへと移し、新しいプロジェクト――現代、屈折ピラミッドとして知られるようになっている記念碑で、古代エジプト人に「スネフェルは輝く、南」とよばれていたもの――をはじめました。
スネフェルは大ピラミッドを建造したクフ王の父親で、ヘテプヘレス王妃と結婚していました。ギザのシャフトから王妃の美しい葬祭用具が発見されており、後に修復され、今ではカイロ・エジプト博物館で見ることができます。
われわれは「パレルモ・ストーン」と呼ばれる石のブロックの刻印から、彼の治世の間の多くの重要なイベントを知っています。ここから、彼の西方との戦争(※ヌビアとの戦争の記録はみられるが、西方、リビアとの記録は見られないとのこと。)と、レバノンの木材取引の命についてを学べます。
このピラミッドは実際、はじめから、滑らかな側面を持つものになるように計画されていましたが、屈折ピラミッド建設の初頭には、ちょうど、もっと早期の階段ピラミッドでされたように、ブロックは内側に傾斜するように置かれました。
そして、ざっと半分ほど積み上げた時、ブロックを水平にし、次に傾斜の角度を緩めることが決定されました。これは、ピラミッド内部の部屋に対する圧力を縮小し、そして特殊な屈折を導きました。さらにそれは、ピラミッドを完成させるために必要な石材の量を減らしました。
ピラミッドの地盤は不安定であったため、その崩壊を防ぐためには思い切った手段を取らねばなりませんでした。
ピラミッドの内部もまた変わっています。そこには二つの入り口があります。ひとつは北側にあり、もう一つは西側です。
北側の入り口は地面の下に約11.8mの高さであり、そこから長く細い軸が約80m下ります。そして、「持ち送り式の」壁の部屋に出ます。そうして、南の壁より6.25m進んだ先にある、より低い埋葬室に着くために、ここで木製の階段一式を上らなくてはなりません。
西側の軸は、北側のものよりも傾斜が緩く、別の埋葬室に向って約65m下がって、北の入り口からのものよりもピラミッドの内部でで高い位置にあります。
古代のスギ木材はこの部屋で見られ、部屋の圧力を取り除くのを助けるためにおかれました。
私は以前、カイロ・アメリカン大学の生徒たちとともにここを訪れ、私の良き友人であるレイナー・シュターデルマン博士を紹介しました。彼は人生をピラミッド研究に捧げ、当時ダハシュールで発掘作業をしていました。
このピラミッドに入ると、我々は屈折ピラミッド特有の奇妙な体験をします。またいくつか、初期の探検家らによって記されてきたようなことも。
ピラミッドの中に立つと、ときどき内部から出口へと流れ出る冷たい空気を感じるでしょう。これは部屋のうちの一つが外側と通じていることを意味し、発見されるべき秘密の部屋がまだ残っている可能性を示しています。
スネフェルの治世の30年目くらいに、屈折ピラミッドの作業が止まり、ダハシュールの北で新しいピラミッドの建造がはじまりました。この重要なピラミドについては、次の記事で学びましょう。
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●ザヒ博士とグランド・エジプシャン・ミュージアム
http://www.ngrguardiannews.com/arts/article01/indexn2_html?pdate=040809&ptitle=Egyptian%20grand%20museum%20spotlight%20Pharaoh%27s%20heritage
カイロに新しく作られているグランドミュージアム。
あと、ザヒ博士の評価などについても。
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ギザの大ピラミッドは、20年かけて作られたと考古学者は考えます。グランド・エジプシャン・ミュージアムの完成にも、同じくらいの期間がかかるでしょう。
プロジェクトの大きさに驚くことはありません。1992年に構想された、5億5000万USドルの博物館はファラオにふさわしい仕事です。
広大な、石で覆われたその構造は、ギザ台地の端からサッカー競技場11個分ものエリアにかけて広がります。博物館には、ツタンカーメン王に関する内容を要に10万点以上収容するでしょう。
「エジプトの遺産は観光業にとってとても重要であり、そのため我々はそれを保護すると同時に、ある方法で売っていかなくてはなりません」カイロ大学の考古学技能部(?)の学部長であり、考古最高評議会のメンバーであるアッラ・アッディーン・シャヒーン教授が言います。
今月発表される予定のプロジェクト・マネージャーによって料金が9月に支払われ、新しくオープンするのは2013年と予定されているので、博物館はそんなにすぐにカイロにできるわけではありません。観光業はエジプト経済にとって不可欠で、訪問者からの収入はこの10年で四度の折り目を見せ、昨年は110億ドル以上にもなりました。産業はエジプト(GDP国内総生産)の11パーセントにもなります。
厳しいことに、貧困が広がる7800万人の国にとって、観光業は更にエジプトの労働力の約12パーセントを使っています。遺物評議会はその給料支払い簿に約3万人を記しています。
グランド・エジプシャン・ミュージアムは、大勢の観光客を考慮して建てられています。ダブリンに本拠を置く建築家Henighan Pengは、1日当たり1万5千人の訪問者に適応するよう、テラスのある建物を設計しました。去年エジプトを訪れた観光客の25パーセントに当たる、300万人の訪問者を年間で引きつけることです。
しかし、観光業と考古学は簡単には交じり合いません。
評議会の事務局長であるザヒ・ハワス博士に、夜になっても眠れない理由を尋ねると、ためらわずこう答えます。
「エジプトの考古学的財産にとっての単一かつもっとも大きな脅威は、観光です」
たとえば幾千もの訪問者が呼吸するだけで、王家の谷の彩色された壁画に損害を与えます。
「我々が深刻に手を打たなければ、墓は100年以内に消え去るでしょう」
かつて貸し出し自転車とひと握りのバクシーシさえあれば王家の谷を見ることができましたが、この夏から、たった一握りの観光客だけが王家の墓を訪れることを許され、その後、アポイントを取った場合のみとなりました。
この地域は徒歩交通を制限するために開閉を交互におこなうようになるでしょう。
乗り物はほとんどこの地域から締め出されました。しかしこれらは、エジプト遺物と旅行部門の点検整備のほんの小さな部分にすぎません。他の20の地方博物館が、群衆を引き付け(歴史的)地域から引き離すために、ギザの壮大な飾り物に加えて計画されています。
「私たちの今の目標は、観光業の需要と記念碑の保護についてを比較検討することです」ハワス博士が言います。
カリスマ的でメディアをよく知る62歳のハワス博士は、盗まれたエジプトの遺物を外国から取り戻すことを彼の生涯の仕事としています。最近の成功は、4月のイートン校からの遺物450以上を回復したものを含みます。この英国の私立学校は、1990年代に寄贈された遺物の出所を確立することに失敗し、カイロに遺物を返すことを決定しました。
ナショナル・ジオグラフィックやディスカバリー・チャネルへの頻繁な露出は、ハワス博士がいつも同僚から慕われているということではありませんでした。
「彼は他の考古学者を間違った方法で磨くコツを心得ています」と、ロンドンのエジプト学者が言います。
「しかし、彼の興業手腕は良い結果を出しています。彼ほどエジプトの遺物の不法貿易に対して意識の高い人はいませんよ」
インディー・ジョーンズ・スタイルのソフト帽をしょっちゅう誇示して、ハワス博士は明らかに彼のメディアでの人物像を意識しています。「盗難品を回復させたとして知られる私の偉大な成功は、エジプトに戻すようにした5500の遺物ではなく、盗まれた遺物についてを世界中に知らしめたことです」と彼は言います。
中東の他の職員は、彼の手本に習い始めました。広範囲なメディアの活動のおかげで、考古学者とイラクの政府関係者は2003年の米国主導の侵入以来、盗まれたイラクの遺物の交易を徐々に弱らせることに成功しています。
湾岸国家もまた古代遺跡の観光業の可能性に気づき、国連の教育、科学的・文化的構想、そしてUAEバーレーン、サウジアラビアおよびオマーンなどに新しい博物館の設立することを、未決定のリストにあげています。
狭く細長い肥沃な土地に5千年以上もの文明を圧縮させて、エジプトは観光業の古参者的な土地であり、その最悪な影響をはじめに経験した土地でもあります。ルクソール神殿はいまも18、9世紀の訪問者の落書きを残しています。グランド・エジプシャン・ミュージアムが開くまでの約5年間にすべきことは、これ以上の損害を防ぐことです。
遺物倉庫におけるエジプトの警備ネットワークは共通の泥棒対策として倍増されました。1902年にカイロの下町に建てられた、堂々としているがみずぼらしい国立博物館の地下室の埃の中から何千もの遺物を集め、その内容は今カタログされています。
「博物館はエジプトの遺産を保存するために非常に重要です」ハワス博士は言います。「ツタンカーメン王のコレクションのようなものがこのように美しく飾られるのは、初めてのことになるでしょう」
ギザの博物館のためのアイテムは、1世紀以上も前に発掘されてから一度も公になっていないものが多くあります。
「新しい博物館はこれらの遺物を保存するため、また同時に多くの人々に見せるための最善の方法です」シャヒーン教授は言います。「私たちは、これが世界で元も素晴らしい博物館になることを願っています」
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似たようなことを繰り返し記事にしちゃいましたね。
●ギザの近代化政策
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セド・アリ氏は小さな灰色のアラビアン-スタイルの馬の後ろ脚を蹴ると、荒廃したラクダの群れの間を縫うように進んで、足早に砂を横切って行きました。
アリはギザの大ピラミッドで、私たちノースイースタン大学の学生グループに、ガイド付きのツアーをしてくれていました。彼が6歳のころから携わっていたファミリービジネスです。
私たちが出発する前に、アリは私たちに、エジプト政府へ彼のビジネスを称賛する手紙を送ってくれるよう求めました。彼は歴史地区における政府の近代化効果が、ピラミッドに依存する独立したラクダ操縦者たちを終わらせることを意味するだろうと懸念しているのです。
「ラクダがなければ、この場所は死んでしまう」
アリ(33歳)の家族はこの仕事を3世代も続けてきているのです。
職員の話によれば、
ここや、その他の歴史地区を監視するエジプトSCA(考古最高評議会)は、ギザのピラミッドを守るために、10月までにこのエリアの広範囲にわたる無秩序な産業――ラクダ操縦者、案内人および行商人を、注意深く制御された観光業の共同体に移行させたいと考えているようです。
ギザ台地の近代化効果の創立者のチーフであり、会議の長であるザヒ・ハワス氏は、
単に国の宝の一つを保護しようとしているのだ、と言いました。
彼のカイロの事務所における最近のインタビューでは、ハワス氏はラクダと馬の操縦者は計画を駄目にしてしまうのだと認めました。
しかし彼は、彼らはかなり長い間その地域に自由にアクセスすることを許されたため、損害や、また強引な記念品販売に結びついてしまったと述べました。
「ラクダと馬を連れた人々にとって、この台地は金のプレートだ」ハワス氏は言います。「私はそれに磨きをかけたいのだ」と。
ハワス氏は彼のビジョンを描きます。
3500万ドルの観光複へ、観光客が――バスや車、およびラクダや馬で――ビジターズ・センターに到着する。そこから、彼らはチケットを買い、電車を使ってピラミッドや隣接した大スフィンクスへ向かう。アリや他のエリアの商人たちは、家畜小屋や店のために割り当てられた限られた区画を競って、貸し出しと許可のための税を要求される。
今のところ、アリのしているようなビジネスは政府に認可されたツアーバスと競争することを強いられています。それは北からの新しい道路をこの台地に上らせます。
道路はここ数年の政府による、観光業をより規制し、そうしてより利益につなげるための、最も最近に作られたパイプです。
封じ込めるための壁は、すでにこの台地の東側に走っています。しかし、最近の午後に、警備員が我々のグループを100エジプトポンド(20ドル未満)で通してしまいました。
近代化が完了すれば、このゲートで制御された入り口は、徒歩で旅行したい観光客とVIPにだけ使用されるでしょう。
「壁は好きではありません」ハワス氏が言いました。「けれど、あなたが死につつあり、彼らがあなたの足を切りはなそうとしているとしたら、そんなとき、あなたは同意するでしょう」
壁はさらに、ピラミッドの近くに家を建てようとすることを阻む意図を持っています。
「私は人々に、ピラミッドの魔法を感じてもらいたい」
ハワス氏は、この台地がより緊密に制御されなければ、物理的な損害の可能性があることを強調しました。「ピラミッドは歴史に寄与してきました」
同様のプロジェクトが、ルクソールのハトシェプスト神殿とカルナク神殿で完了しました。
1997年11月に、イスラム武装集団がそこで60人の観光客を殺害したことから、最近重大な追加分を加え入れました。
遺物へのいっそうの損害に対する懸念は、ハワス氏にエジプトで最も人気ある観光スポットの一つであるツタンカーメン王の墓(KV62として知られている)のレプリカを構築し、オリジナルを閉鎖することを考慮させます。
2007年12月、彼は王家の谷の一番の呼びものであるこの場所を守るため、訪問者数を1日に400人までと上限を設定しました。
「私はエジプトで、これ以上旅行者が増えてほしくないと考えるただ一人の人間です」ハワス氏は言いました。
アリは、彼自身の仕事が好きだし、これを終わらせる準備ができていない、と言います。尋ねられた時、彼はこの台地で働くことで英語を学べると言いました。
群れの中に馬を引きながら、彼は叫びました。"This is the school of life."
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うーん、すみません。最後の二節がよく分かりませんでした。
遺跡を守るためにするべきことと、
現地の人々の生活。
両立は、なかなか難しい問題ですよね。
こんなプランが持ち上がっているなんて知りませんでした。
複合体ができれば、観光に行く方は分かりやすく安心だし、それで遺跡が守れるなら嬉しいことですが、
そのために現地の人が職を失うようなことがあると、問題ですよね……。
というか、そんな大きなものを建てて、
あとから何か出てこないんですかね。
たぶん、建設しながら発掘という形になるでしょうが……。
王家の谷の問題も考えると、
中に入って見ることは、もう数十年後には、無理かもしれないですね……。
訳してよかったです、この記事。
考えさせられますね。