古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●シリアとエジプト、古代の交易の証拠を発見
http://www.earthtimes.org/articles/news/341179,ancient-trade-routes-nile.html
交易の証拠は前から出てるみたいですが
思ったより大規模っぽいということです。
シリアのアレッポという都市の近くにあった、かつての王都の廃墟にある墓から、ナイル川流域とメソポタミアが起源のものがみつかり、
古代の王国は非常に多くの富に恵まれており、考えられてきたものよりずっと広大な国際貿易を行っていたのではないか、と調査隊の隊長さん。
この遺跡では、古代エジプトの中王国時代の王、アメンエムハト二世の娘イタによってスフィンクスの石像が贈られており、今までも何千キロも離れたエジプトとカトナ王国の関係が示唆されていました。
最近の発掘では、青銅器時代BC1650~1600にさかのぼる古代の贈り物が発見されており、その中には金とラピスラズリでできた腕輪、やしの木が描かれた金のシート、小さな水晶のつぼ、エジプト起源のカバの石像などを含むそうです。
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いやあ、そういえばエジプトの文明は青銅器時代に入るんですよね……。
なんだか、え、そうなのって感じしませんか?
●カルガ・オアシスで第二中間期ごろの遺構を発見
http://www.drhawass.com/blog/press-release-new-settlement-discovered-kharga-oasis
テーベと西部砂漠を結ぶ古代の道を調査中の
エール大学の調査隊が
カルガ・オアシスでかなり大きな遺構を発見したそうです。
そのあたりで発見されている主な遺物を千年もさかのぼるものだといいます。
遺構は南北1km、東西に250mの幅で、
第二中間期(BC1650~1550)ごろのものだそうです。
ナイル渓谷から西部砂漠と、西スーダンのダルフールを結ぶ、キャラバン隊がせわしなく行きかう道に広がっていて、
考古学的な証拠から、それはこの一帯の集落の行政中心地の一部で、住民は大規模なパン焼き場で仕事をしていたということです。
調査隊は発掘中に、行政の日干し煉瓦建造物の遺構を発見したようです。
部屋と広間のある建物の構造が、ナイル渓谷の各地で今までに発見されている行政上の建造物と似通っていたため、
遺跡はこの居住地の行政中心部に設けられた監視所だったかもしれないとのこと。
パン焼き場が、二つのオーブンと、陶芸用のろくろ(パンを焼くためのセラミックの型を作るための)などと一緒に発見されています。
その外側にあるゴミ捨て場の遺物から、この居住地では食料を余剰生産しており、おそらく軍隊の食糧をまかなっていただろうことがうかがえるそうです。
この居住地は中王国時代に始まり、新王国時代のはじめまで続いていたと思われる、とのこと。
最も栄えたのは、中王国時代の終わりから第二中間期ごろだろうということです。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/08/25/AR2010082501576.html
「第二中間期はファラオが、北からはアジアの侵入者ヒクソスに、南からはヌビアの王国に挟まれていた期間であるため、オアシスとその貿易ルートはエジプト王国存続の鍵となった可能性がある」
オアシスを通り、スーダンのダルフール地区とナイル渓谷、さらには古代パレスチナおよびシリアを結ぶこの長大な行商路は、
らくだが使用されるより少なくとも千年は昔から、
ロバを使ってワインなどのぜいたく品が運ばれていたようです。
●続・シェンドゥワとコンス父子の墓
Heritage keyより
http://heritage-key.com/blogs/ann/ancient-egyptian-father-and-son-tombs-discovered-saqqara
一部訳します。
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偽扉の下には20Mの深さの埋葬シャフトがあり、そこから彩色レリーフと30cmの高さのオベリスクを発見しました。
「オベリスクは太陽神ラー崇拝の象徴です」ザヒ・ハワス博士は言います。また、古王国時代のエジプト人は墓の正面と礼拝堂の中(王妃のピラミッドと関連付けて)に、小さなオベリスクを立てたのだと加えました。
開いたとき、シェンドゥワの墓は完全な状態でした。どの墓泥棒も見つけられず、略奪しませんでした。しかし残念なことに、木製の棺は湿気と侵食のため分解していました。
棺の横には、五つのカモの形をした供物容器(中にカモの骨が残っていた)を含む石灰石の壷がたまっていました。
コンスの墓は彼の父のものの隣で発見されました。チームは偽扉と、そのちょうど反対側にあった供物台、そして床のまぐさが第6王朝のシンボルで装飾されているのを見つけました。(シンボルって?)
偽扉にはコンスの官僚の肩書きを挙げており、その中の多くが父を継いだものでした。その上には小さな彩色レリーフに、コンスが異なるポーズで刻まれています。
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第六王朝の墓が未盗掘で残される例は稀である、と強調しています。
ヒエログリフについて、これらの綺麗な画像を見ると、
左端の一文、「王の唯一の友人」の下は
「王の書記の頭」っぽいのかな。
真ん中をはさんで左側の一文、名前の下は
「レク・ネスウト エン アケヌウティ」=「王宮内の私室における王の知人」。
真ん中をはさんで右の一文、横長のはG49? 見つからない!
あ、ザヒ・ハワス博士のサイトを見ると、(さすが画像が綺麗です。文の内容はHeritage keyとほぼ同じ)
http://drhawass.com/blog/press-release-two-new-tombs-discovered-saqqara
使者たちの監督、という肩書きも持ってるそうです。
右端の一文かな?
長らくご無沙汰していてすみません(涙)
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●サッカラで第6王朝の墓が発見
エジプトで第6王朝(古王国時代)の墓が発見されましたね!
見つかったの二日ほど前らしいですが。
とりあえず日本語のニュースをそろえました。
NHKの。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100709/k10015624981000.html
動画が一番長いです。
http://www.teny.co.jp/nnn/news89042020.html
名前はシェンドワとその息子ホンスだそうです。
http://mainichi.jp/select/world/news/20100708dde007030054000c.html
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ラー信仰、オベリスク。さすが第6王朝!
ジェセルのピラミッド(最古のピラミッド)側に墓を作らせてもらえるってことは、かなり王様に気に入られてたんでしょうか。
まだ英語のサイトチェックしてないので、これから行ってきます!
ヒエログリフ読んでみたい!
http://www.sanspo.com/shakai/photos/100707/sha1007072028023-p1.htm
死者の世界へ魂が行き来するための扉(偽扉)です。
画像の左上のカルトゥーシュを見ると、ネフェルカーラー(ピラミッドテキストも残ってるペピ二世)とあります。この人はペピ二世の時代の高官のようです(はい今調べました・笑。王名は頭に入ってない!)。
その行の一番下にある、横長の四角(sh)、波線(n)、星(dwa)、葦(今はもう読まないのかな)でシェンドゥワ、墓主の名前。
あとは一番上の、右から始まるヒエログリフ。決まり文句なんで、慣れれば誰でも読めますが(笑)、「ヘテプ・ディ・ネスウト、アンプゥ、テピジュウエフ、イミイウト、ネブタァジェセル」=「アヌビス神《彼の山の上にあるもの、ミイラ師、聖なる地の主》へ王による供物」。
真ん中をはさんだ二行、同じ単語で始まってますが、これが「スメル・ワアティ」=「王の唯一の友」、宮中の廷臣を指す様子。
一番左の一行を見ると、「ペレト・ケルウ」=「声による供物」の下にやっぱり同じ称号があります。その下が王を表す「ネスウト」と似てるんですが、はっきりしないのですみません!
(はっきりした画像を調べると、ネスウトらしいものの下にあるのは横顔「tp」でした。その下のも、なんだかよく分からない!)
さらに下にはパレットがあって、書記を表しますよね。王の書記、だと思うんですけど(ニュースの説明を読んでも)。
その下も決まり文句で「イマアキィウ・ケル・ネチェルアア、シェンドゥワ」=「大いなる神によって尊厳を与えられしもの、シェンドゥワ」
こうやって見ると、単語があまり使われてないので、
偽扉って勉強にちょうどいいかもです……。
それでもまだ全部読めないんだもんなあ……。
はい、機会があるごとにちょっとずつがんばるです!
19王朝プタハメスの墓、発見
●
http://drhawass.com/blog/press-release-discovery-tomb-ptahmes
訳します。
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カイロ大学考古学学部がサッカラで新しい墓を発見しました。
調査隊はサッカラのウナス王のピラミッドの傾斜路の南側にある、第19王朝のトップの官僚たちの埋葬地で、プタハ-メス、軍の指揮官であり王家の書記だったという人物の墓を見つけました。
文化大臣ファルーク・ホスニが今日加えた内容によると、
その墓は第19王朝の後半(BC1203-1186)に位置づけられるといいます。
エジプト考古最高評議会(SCA)の事務局長ザヒ・ハワス博士が説明するには、
墓は70mの長さで、多くの通路と礼拝堂を備えており、
この構造はアクエンアテン王の治世に生きた、王の印章持ちプタハ-イム-ウイヤ(Im Wiya)のものとよく似ている、ということです。
プタハ-イム-ウイヤの墓は2007年にサッカラにおいて、オランダの調査隊に発見されました。
カイロ大学考古学学部の前学部長Ola El-Egezi博士は、
墓の所有者がいくつもの政治ポストについていた――世継ぎの王子、王家の書記、プタハ神殿の監督官などを含む――ことによって卓越した形をしているといいます。
続けて、この発掘でステラもいくつかみつかったといいます。
それらの中に、テーベの三柱神(アメン、ムトそしてコンス)の前に死者とその家族のいる場面画で特徴付けられる未完成のステラが含まれています。
このようなステラは、El-Egezi女史が言うには、19王朝の後半に、アメン信仰が復活したことを明らかにするそうです。
調査隊の代理人であるアフメド・サイード博士は、
発掘の間に、墓主やその妻の彫像の破片がいくつか発見されたといいます。
彩色された、彼の妻かまたは娘のものらしい頭部像も、死者のものである石灰岩の像の下部と一緒に発見されています。
陶製の容器、シャブティの小像および護符もまた砂の中から見つかっています。
調査隊の一員であるヘバ・ムウスタファ博士は、
墓の柱はキリスト紀元に礼拝堂を建てるために再利用されたといいます。またこの墓は19世紀に強盗に遭い、それが壁に悪影響を及ぼしました。墓の破片のいくつかは墓内部の残骸の中で見つかりました。ムスタファ氏は、復旧のためにこれらの欠片をすべて集めている、といいました。
プタハメスの墓の発掘作業は、
死者の石棺とその葬祭道具の置かれた埋葬室へ通じるメインシャフトを見つけるために、続けられるでしょう。
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もう一つニュース記事(下記URL)があるんですが
新しい内容が合ったら、明日以降に加えます。