古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
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今までと重複するところもあるので、
途中から訳します。
参考:発見時の記事
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/215/
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/216/
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谷の南東部の端で、人工的な縁石の3辺(約1×1.5メートル)を発見した。
考古学者たちはそれを、放棄した墓の上面だろうと考えた。
(そして革命開始の不安定な情勢のため、鉄の扉でふさいだ)一年後、革命から一周年になろうかというときに、ビッケルは24人のチーム(ディレクターであるバーゼル大学のエリナ・ポーリン・グローテ、エジプトの検査官アリ・レダ、地元の労働者を含む)とともに戻った。
彼らはシャフトから砂と砂利を取り除くクリーニング作業を開始、
2.4メートル下ったところで、大きな石で閉ざされた扉の上辺にあたった。
シャフトの底にはナイルの泥で作られた陶器の破片、墓の入り口を封じたりするのによく使われていた石膏のかけらを発見した。
これらの石膏のかけらは、近くの他の墓の年代とともに、このシャフトが実際にBC1539-1292年(第18王朝)頃の墓であることを示す、はじめのサインだった。
大きな石は後に足されたようだった。石が入り口をふさいではいたが、小さなデジタルカメラを入れることが出来るくらいの穴があった。ビッケル、ポーリン・グローテ、そしてエジプト人の労働者の長が交代で地に横たわり、頭をシャフトの壁に押し付け、片手を穴に通し、写真を撮った。
この驚くべき画像は、岩を切り出して作られたこの3.9×2.5メートルほどの小さな部屋が、天井まで1メートルほどを残して瓦礫でうまっていることを明らかにした。これによって、これが墓であることはほとんど疑いの余地がなくなった。
瓦礫の上には、ほこりをかぶった黒い棺――シカモアの樹を切り出して作られ、その側面と上面には大きな黄色いヒエログリフで飾られた――が横たわっていた。
「これまでにこんな良い常態の棺を見つけたことはありません」ビッケルは言う。
ヒエログリフはこの墓の占有者を語る。
名は 「Nehemes-Bastet ネヘメス・バステト」、上流階級の「レディ」で、アメン神の「shemayet 歌い手」で“父親はテーベのカルナク大神殿の神官”であった。
棺とヒエログリフの色はBC945-715年ごろのスタイル(墓が作られてから少なくとも350年後)と一致している。棺は、この埋葬室が(当時の一般的習慣である)再利用したものであることを示している。この棺と同じ時代のものとされる出土品は、木製のステラだけで、iPadよりほんの少し小さいそれには、死後の世界の彼女へ捧げられた祈りが描かれており、腰掛けた太陽神アメンの前にニヘムスバステトと思われる人物の図がある。
白、緑、黄と赤に塗られた色は少しも色あせていなかった。ビッケルが言う。「つい最近倉庫から持ち出され物みたい」
埋葬室を満たしていた瓦礫は、元の18王朝の墓の遺物――陶器、木の破片、そしてこの墓の元の持ち主のものと思われる、布で包まれていないバラバラになったミイラの一部――を保持していた。
そしてこれも特筆すべきことだが、王家の谷の未盗掘墓の発見としては、このニヘムス・バステトの墓以前は、あのハワード・カーターが1922年に発見したツタンカーメンの墓が一番最近の発見だったのだ。王家の谷はほとんど発掘されつくしていて、何も新しいものは残っていないといわれている。
ベニス(ベネチア)の古物収集家ジョバンニ・ベルツォーニは1817年の遠征で谷の墓を空っぽにしたと信じていた。一世紀ほど後にそこを発掘したセオドア・デイヴィスは似たような結論に――ツタンカーメン王墓が発見される直前に――至った。
もちろん、他の発見がこの谷でもあった。
1995年にはワシントン州タコマのパシフィックルーセラン大学、ドナルド・ライアン率いる調査隊がラムセス2世の家族に使用された墓の調査を行い、それまで知られていなかった階段を発見。それはラムセス2世の息子たちの眠る121以上の部屋へと通じていた。残念なことに、それらは古代に盗掘され、鉄砲水によるダメージを受けていた。
2005年にはオットー率いるSchaden of the Amenmesse プロジェクトが未盗掘の部屋を発見、7つの棺とミイラ作業に使われる材料の入った28の壷が見つかった。その部屋は、しかしながら、身体が見つかっておらず、墓とは考えにくいものだった。ビッケルのチームが更なる研究のためニヘムス・バステトの棺を墓の外に出す前に、それが動かされたとき中身にダメージを受けるものがないかを確認しなければならない。ふたを閉じていた釘を取り外す作業に、プロの修復家の手で丸一日かかかった。検査官アリ・レダと上エジプト考古物の主任検査官モハメド・エル・ビアリーは、ビッケル、ポーリン・グローテとともにそれを開いた。中には、1.5メートルほどの高さの丁寧に布を巻かれたミイラが存在した。
それは、ミイラ化の作業に用いられた、粘着性のフルーツ由来のシロップのために、全体的に黒くなっており、底にも付着していた。発見されてからわずかの間に、その墓は葬られた女性についての興味深い洞察を与えてくれた。 ニヘムス・バステトの埋葬された時代(BC945-715年頃)はエジプトがその力と影響の上でピークといえた時期よりずっと後だった。大ピラミッドはもう1500年も前のことだったし、新王国時代の隆盛した日々は過ぎ去っていた。ニヘムス・バステトは第三中間期の時代――エジプトが他にすのファラオとテーベの高官(富と権力が伝統的な王のものに匹敵していた)による断続的な戦争によって分裂してしまった時代――を生きた。
「かなり不安定な時代だったでしょうね」シカゴ大学オリエント研究部の研究助手でありエジプト学者のエミリー・ティータは言う。「彼女の時代は、これらの派閥が争いあっていたんです」「この期間に、裕福な女性がこのように簡素に埋葬されているなんて、興味深いことです」ビッケルはニヘムス・バステトの棺とステラを、より早期の墓から見つかった精巧な陶器や家具、食物と比較して言う。「彼女の木製の棺は間違いなく、非常に高価だったわ」しかし類似の埋葬で発見されるような棺によくある精巧な内棺を欠いていた。
ニヘムス・バステトの日常についてはより詳細に、当時の像やステラに刻まれた豊富な描写、テキストそしてレリーフから描き出すことが出来る、とティータは言う。
アメン神殿の歌い手として、彼女はテーベにある約1平方kmのカルナク神殿複合体に住んでいただろう。彼女の名は、「バステト女神が彼女を守るよう」という意味を持つことより、彼女は猫の女神であり「聖なる母」であった下エジプトの守護者であるバステトの加護を受けていた。しかしニヘムス・バステトの職業は、それにもかかわらず、エジプトの神々の中の王であるアメン神を崇拝するものであった。古代エジプトの宗教において、音楽は主な構成要素だった。
ティータは、音楽が神々を沈め、また参拝者への供給を促進すると信じられていた、と説明する。
ニヘムス・バステトは神殿の庭や聖域で演じる多くの音楽家・女神官の一人だった。
「仮説では、彼女たちは歌い、演じ、また年に何度か行われる大きな儀式や祭の行列に参加していました」と、ビッケルは言う。
こういった歌手たちが手にする主な楽器の、楽器「メナト」は、たくさんのビーズの房を束ねたネックレスを振って使うもの。「シストラム」は、手に持つガラガラで、その音はパピルス葦が風で揺れた時のさらさらした音のようであるといわれている。
宗教的な行列では、他の楽士たちが太鼓やハープ、リュートを演奏していただろう。
「それがどんな音楽なのか、人々は長年議論してきました」ティータは言います。「けれど音楽の譜面のようなものは何も残されておらず、どのように調律したか、それが歌であったのか詠唱であったかすら分からないのです」
ある学者は、それがラップの古い祖先のようなものであったかもしれないと考えている、と彼女は加える。
強調部分は確かに打楽器を用いていた。人々が足を踏み鳴らしたり手拍子する図が良く示されている。
歌詞の例は神殿の壁に記録されている。下記はルクソールのもので、オペト祭――アメン、ムト、コンスの神々の像が船でナイルに運ばれ、ファラオの神聖な性質が更新される祭――に言及している。
『万歳、アメン・ラー、二国のうちではじめの者、カルナクの第一人者。
川の船団の中の輝かしい御姿に、素晴らしいオペト祭に、あなたが満足されますように。』
「アメンの歌い手」という肩書きは、上流階級の女性のものだ、とティータは言う。
系図は複数世代の女性が同じ肩書きを持つことを示しており、おそらく母が娘へと職業を教え、継がせていったのだろう。
「とても栄誉ある職でした」ティータは言う。「これらの職業の女性は社会的にとても尊敬されました。だから、この『ニヘムス・マステト』は王家の谷に埋葬されたのでしょう」
彼女たちが神官と同じ立場だったとすると、アメン神が国中に「所有している」甚大な土地面積から生成されたものが収入として支払われていたことになる。神官や女神官のうちいくらかは、一年のうちに家に帰るまでほんの数ヶ月、神殿に仕えるだけだった。
ニヘムス・バステトのような女性が家に帰って何をしたかについてはほとんど情報がない、とティータは言う。しかしおそらく、当時の女性たちの伝統的な仕事――家事をし、子供を育て、夫を支援する――とさほど変わらなかっただろうと思われる。
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最後の一節は訳してませんすみません。
墓から出して対岸に運んで詳細を研究していくそうです。
元の第18王朝のミイラも調べて、名前か、とにかく少しでも知りたいと。
あと、ニヘムス・バステトのミイラは今年の終わりごろか2013年のはじめごろにはCTスキャンする予定とのこと。
墓や遺物の最終分析にはおそらく4、5年かかるだろうと。
とにかく、「まだ未盗掘の墓があったなんて!」というのが驚きだったようです。
オットー曰く、「『この谷にはもう何もない』、と言うのは早すぎる」だそうです。
●第一中間期~中王国初期の墓発見
2012年5月28日
【調査報告のPDF・画像あり】
http://www.dayralbarsha.com/sites/drupal.arts.kuleuven.be.barsha/files/Dayr%20al-Barsha%20Press%20Report.pdf
・発掘隊:Harco Willems率いるベルギーのルーヴェン大学の発掘隊
・場所 :デル・エル・バルシャDayr al-Barsh?
(中エジプト、野ウサギの女神ウェネトの州、ヘルモポリスのあたりで、第一中間期の州候などの墓がある)
・時代 :中王国はじめごろ(BC約2040年)のもの。
・状態 :未盗掘ではなく、少なくとも二度は盗掘されている
そのため広大なダメージを受けたが、
それにもかかわらず、かなり多くの物が元あった位置に残っていた。
そのため、かなり興味深い葬儀にかかわる情報を読み取ることが出来る。
・墓主 :ジェフティナクト。おそらく州知事
発見は、よく知られている、中王国初頭の野ウサギ州(ウェネト州)統治者である知事「アハナクト」の墓(1891-92年に発見されていたもの)でなされた。
そこは1915年に、ジョージ・アンドリュー・ライズナーによって徹底的に調査され、州知事の墓(発見された美しい遺物は世界的に有名))がほぼ完全な状態で発見されている。しかし、ライズナーはアハナクトの墓の南西のシャフトを調査し終えていなかった。彼はそこが、彼自身がその場所に来たほんのわずか前に盗掘されたと察し、調査を止めた。
これ希少なチャンスに思われた。ライズナーはこの周辺の墓を徹底的に空にしてしまっていたからだ。
ルーヴェン大学調査隊は過去10年間、その既に空にされた墓を調査し文書化するばかりだったし、他のどこにも、このような墓が発見されるような機会はありそうになかった。ライズナーが、この墓を「盗掘された」と考えたのは正しかった。
シャフトを6メートル下ったところで、かき乱された物が見つかり(墓の壁を飾っていたいくつかの重要なレリーフ片を含む)、そこにはタバコの吸殻や20世紀初頭の日付のある新聞の破片が残っていた。
墓の備品と見られる大量の遺物もあったが、この墓のものかどうかも定かではないし、それらのほとんどが、ダメージを受けていた。
さらに、埋葬質は天井まで小石が詰まっていていた。推測だが、盗掘者が故意に小石を投げ入れたかもしれない。その過程で、木製の備品は壊れてしまった。
しかし多くの葬儀用の供物は盗掘者に気付かれなかった。墓は二度盗掘されたらしい。
一度目は古代に既になされれていた。当時、盗掘者は高価なものにしか目をくれなかったらしい。棺には金箔の破片が大量に見られ、おそらく他のものにも、金箔は用いられていただろう。
この最初の盗掘のあと、墓はどうやら開いたままの状態だったらしい。何年もの雨水が墓に流れ込み、石灰の屑と交じり合った。一度乾燥すると、この混合物は硬い石灰の厚い層だけを残していた。それらは19世紀後期に入り込んだ盗掘者にとっては床に見えただろう。
これらの盗掘者のせいで、棺や他の木製の道具は腐ったり湿気によって繁殖した菌の影響を受けていた。
ところが発掘者が埋葬室を空にしてみると、いくつもの葬儀用備品――アラバスター、ファイアンス、銅や陶器製の――が、石灰の厚い層に埋められるようにして、元あった位置に見つけられた。
発見されたものの中には、アラバスター製の模型の器、供物台、ヘッドレスト(枕)、ファイアンス製の神酒壷、そしてさまざまな銅製の壷、皿、そして模型のテーブルがあった。
そしてまた、今までは古代の描写の中でしか知られていなかったユニークな儀式用の道具が発見された。これらの道具の配置が、葬儀の流れを細部まで再現することを可能にさせる。
ここから想像される流れは、まずはじめに棺が埋葬室に置かれ、それから清めの儀式が執り行われ、その後供物の儀式が執り行われたのだろうということだ。
後者の儀式は描写やテキストでもよく知られているが、こういった儀式が地下の埋葬室で成されたことを示すと考えられる例は、初めてである。棺の遺物は状態が非常に悪く、調査は来年、修復保全し終えてからとなるだろう。
ただし、二つの重要な結論を既に出すことができる。
第一に、棺には銘が刻まれており、テキストによるとこの墓は「ジェフティナクト」という男のものであるということ。
これは重要なことである。なぜなら、アハナクトの墓の記述には、彼の父としてジェフティナクトという人物への言及があるからだ。これはおそらく、アハナクトが父親を自分の墓に埋葬したことを示唆しいている。
ジェフティナクトは第一中間期最後の、野ウサギ(ウェネト)州の知事として知られている。よって、その人物はここに埋葬されていると結論できる。第二に、彼の棺にはコフィンテキストが刻まれているということ。
このテキスト集は中王国時代の最も重要な宗教文書であり、それは古王国時代の王のためのピラミッドテキストと、新王国時代の有名な死者の書の、二つ結びつける形式をもつ。
中王国時代のコフィンテキストの伝統はここデル・エル・バルシャから始められたことは既に知られており、その最初の例がアハナクトだったが、今回の棺上に銘が発見されたことによって覆ったと言える。
この、ジェフティナクトの保存状態の悪い棺には、コフィンテキストの歴史にとって重要なチャプターが加わっている。中王国時代の最も初期のものの代表であると考えられる。
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場所の名前とかよく知らなくて(笑)、この辺が「コフィンテキスト」の始まりとも知らなかったですが
コフィンテキストの「最古」かも、っていうのはおもしろいですよね!
あ、「典型」という意味で「最古」なのかもしれませんが……
「重要なチャプター」ってなんですかね、すごく気になります。オシリスの審判?
いろいろ興味深いです!
こういう、面白そうな発見があっても、
そのあといろいろ調査されるのに時間が(当然)かかって、追跡できないのが自分の残念なところです……(涙)
せめて銅製の、左下の、柄らしいものがL字型に曲がってるものの正体くらい知りたいところですが…。
なんか変わってますよね!?
……携帯用の扇?? なんちゃって。わかりません!
野ウサギ州、さすが、トト神の出身地ですよね。ジェフティナクト!
はじめの情報では、もうちょっと状態がいいものかと思ってましたが(それにしては画像が出ていなかった、その時点で怪しむべきだったな)
棺が映されないのは残念です。今どんな常態かちょっと見たかったかな……。
人型ではないだろうと思うです、長方形かな…。←想像するしかない悲しさ
あ、そうそう、ややこしいところがありますね。
【「アハナクト」の墓を調べていて、「ジェフティナクト」の墓が見つかる。】
なんというか、アハナクトのために作られた大きな墓の、これはおそらく床に竪穴を作って、(父)ジェフティナクトのための埋葬室を付属で作ったってことですよね。
自分の墓に、家族や兄弟を一緒に埋葬することがあるようです。
全部「墓」って言うからややこしいんですよね。しかもなんと表現しても、馴染みがないので想像しにくそうです(笑)。
春休みも終わりになって、やっと行って来ました!
感想書きます!
●開館前に行ってみた
10時開館だけど、9時にはもう列ができていると聞いて、
始発で行って来ました。到着は9時45分くらいだったでしょうか…。
並ぶには並んだのですが、館内で寒くなかったですし、どんどん進んでいて、じっと待つという感じではありませんでした。
自分が展示室に入ったのは、10時ちょっとすぎという感じでしょうか。
早く行っても二時間待ち、昼前後は二時間半~もありえると聞いていたのですが、開館時間を早めてくださっているということと、あとスタッフの慣れ、スムーズに進められる方法をいろいろやっているということ、さらに春休みがもう終わっているところもあったようで、この日は(小雨も降ったりしてました)昼でも20分待ちくらいでした。
数十人位で区切られて、部屋に案内されて注意事項を聞いた後、短い動画で導入。そのあと、扉が開かれ、展示室に入ります(動画を見る部屋に入った、その入り口の左手が扉でした。大きいパネルの左側です)。
●展示品全般
入る前に一覧表があったので見ていたのですが、100数点とそんなに多いほうではありません。
が、一つ一つがすばらしい物ばかりで、立ち止まってじっくりみたい。そんなわけで、一時間半くらい見てました。
はじめから楽しみにしていた首飾りとか、
一番の目玉である、ツタンカーメンのカノポス容器とか、
けっこう、「想像していたより小さい!」というのが多かったです。
小さいんですが、それがなおさら、すごさを感じさせるというか、
こんな細かいところまで、丁寧にやってる!!みたいな。
あの、カノポス容器なんて、棺に似たデザインですが、
あれだけ(公式サイトトップとか)大きく拡大しても鑑賞に堪えうるというのがもうすごいですよね。
ツタンカーメンの、シリアガラスのスカラベを中央に置いたあの飾り、上のほうにある月の円盤の中のツタンカーメンと二神の図なんか、肉眼ではちょっと何かよく分からないです。
こういう、図録などのありがたさがよくわかる部分もありました。
あと
実際見ると、図録ほど綺麗じゃないものも(笑)
というか、ああ、ずいぶん光を調整しないとああは見えないんだなあとか、(保存のために光を落としています。やはり、図録ほどきらきらしては見えませんよね)
けっこう傷があるなあとか。
それでも、角度を変えてみることで、紅玉髄やシリアガラスなどの透明感は、生のほうがよく分かりますよね。特に紅玉髄の、オレンジとも赤とも取れる色合いは。
逆に、生で見たほうがずっと美しく見えるものもありました。
木製のものなんて特にそうですが、女性の服のひだとか、丁寧にやすりをかけているんだなあというのが伝わってきて。小さいのに!
なんだか言い出すときりがないのですが
特に気になるところを、具体的に取り上げますね!
●具体的に…
『召使を象った軟膏容器』
展示番号6
小さいんですが、綺麗だなーと思ってみていました。
4つほど同じガラスケース内に並べられているのですが、これのデザインの美しさは際立っていました。
図説を見るより断然生で見たほうが綺麗です。アカシアの木で作ったとありましたが、色が赤茶で優しい木の色をしていました。大きな壷を担いでいるその体の形、バランス、服のひだはもちろん、上の壷の部分に象牙で象った子牛とか、色合いの調和がとっても素敵。
顔の形が整っているのですが、厚い唇、大きめの鼻(図録には、広い額とアーモンド形の目も挙げていました)は異国人を表しているのだとか。
壷にかかれた模様もシリア風とのこと。へ~。気付きませんでした。
とにかく形と色のバランスが優れてます!
『アメンヘテプ2世の儀式用水差し(アンク型容器)』
展示番号9
こ、こ、これは!
アンク型の水差しなんて解説読まないとさっぱり意味が分かりませんでした。知らなかった!
上の方になんか横棒がついてて、これ「シェン」を逆さにして組み合わせたんじゃね?みたいな無駄な深読みをしてしまいましたが(笑)、水の出し入れ口なのですね。
どう見ても使い辛そうですが、「生命を注ぐ水」として分かりやすい形というのは納得です。
これについては図録の後ろのほうで詳しく解説をしてくださっているので…。いや、解説がないと、正直「…え?」って感じでした、はい。
『アメンヘテプ3世とティイ王妃の銘入りチェスト』
展示番号18
イウヤとチュウヤ(王妃ティイの両親で、アメンヘテプ4世の祖父母)の墓から発見されたものの一つですね! 楽しみにしていました!
青とオレンジと金、まさに『エジプトらしい』色合いです。
これ、よくみると、下のネブ籠の上にアンクとウワスが乗ってる連続模様の部分、後ろに布のを張ってるみたいなんですね……。
よく似たデザインのものがツタンカーメン王墓からも出ていて(展示番号91『高脚付きチェスト』・後述します)、今回も展示されていたのですが、そっちにはどうもないらしかったんです。
そもそもどうしてつけていたのかなあ、と不思議でなりません。
図録にも説明はなかったですね…。
『サトアメン王女の椅子』
展示番号34
これきちゃいましたね!!
これも生で見たほうが綺麗です!(木の様子が写真には綺麗に出ないのかも)
濃い赤茶の落ち着いた色合いの木に、金が張られています。
デザインは、私にはとても東の影響が濃いように感じられますが…。
これは特に、座る部分の…なんだろう。草を編みこんだ様子が素敵で、
上からの光で模様が下に浮かびあがって見えました。
風が通って涼しかっただろうなーと思うのです。はい。
『ダチョウ狩りの装飾付き扇』
展示番号60
これは。
正直、黄金の美しさを一番感じました。
まっすぐと長い柄の部分に、ヒエログリフが刻まれています。
ほとんどが(この羽を取り付けた部分のプレートもそうですが)木に黄金を貼り付けているようですが、この絵は、金属なのでしょうか、それだけでもう、何か違います。凛としています。これは、本などで見ていた時には気づけなかったことでした。
図録には、王墓から見つかった扇は8つあって、そのうちの一つ、柄が短く曲がっているものを「王自身が使用したかもしれない」として写真で紹介していますが、これにはダチョウの羽がついた状態で。
カラーで見たかった(笑)ムリだけど!
こっちも見たかったですね!! 自分用のがあったんだ!
『ツタンカーメンの彫像用厨子と支柱付き台座』
展示番号69,70
さて、世のツタンカーメン&アンケセナーメン若き夫婦のファンの皆さん、お待たせしました!!
この厨子は正面から側面から、二人のいちゃいちゃ図で埋め尽くされています! いやほんとに!
正面を6つ、側面を4つずつに区切って計14シーンの、二人の様子が描かれています。ほんとに二人だけの世界!
ほとんどが、アンケセナーメンがツタンカーメンに何かをしているシーンですねー。首飾りを結んであげたり、花やシストラム、メナトを捧げたりとか。狩の獲物を手にしたツタンカーメンをたたえたりとか。水?を受け取っているようなものもありました。
特に注目したのは、正面の扉の一番下。右側は二人仲良く手をつなぎ、左側は、ツタンカーメンの左腕をアンケセナーメンが両手で支えているようです。仲良い様子に見えますね!
図録にないのでうろ覚えですが、確か向かって左側の、上のほうのシーンも、アンケセナーメンが両腕でツタンカーメンを支えるようなものだった気がします。
(あ、香油を塗ってるって説明がありました。なるほど)
扉は半ば開かれた状態で展示され、右の扉の内側は金がはがれていて、その下の木の様子(綺麗に彫られている)が見えました。左右とも、内側の一番下はネブ籠に乗るレキト鳥(すべての庶民の意)が礼拝の形をとっていたと思います。
あと図録を見ていて気が付いたのは、王も王妃も頭飾りがいろいろあること、それと、椅子もいろいろな種類が描かれていることです。
まだまだ、何度見ても見足りないくらいですね……。
『ツタンカーメンの首飾り』
展示番号71
これですね!
青とオレンジに金、まさにエジプトカラー!?
帯の部分のデザインの凝りよう。その細かいこと!
ここまで凝らないとだめなの!?という感じです(笑)
セクメト女神のドレスの模様が、伝統的なビーズ飾りですね! ここまで細かく表現されています。
あと、この帯のつなげ方。細かくデザインされた四角をつなげて帯にしているんですが、繋げ方が、この四角の左右に二つずつ(上下に)糸を通す穴を作って、糸を通すんですね。でもその糸が見えないように、金のところ以外は全部ビーズです。へえ~!
これは、展示番号78『スカラベ付きブレスレット』を見たときにも気付いたのですが、
形が崩れないように、円をつなげたものをビーズの連続した紐の途中に通したり、工夫がされているのですね~!
そこはきっちり形を整えて、それ以外の部分では微妙に形が揺れ動くのが、また美しいなと!思うのです!
全部を型にはめるより、綺麗だろうなと思います。
『プタハ神像』
展示番号75
プタハ様黄金!
そしてまぶしい頭の青!!(笑)
この像は、18王朝あたりに流行る「リシ(羽)」模様に身を包んだプタハ様なんですけど、
羽毛が立体的で! なんかふさふさした感じ!
…なのが、個人的に衝撃でした(笑)。
羽毛の様子を細かい線で描いてるせいでしょうか…しかも一房ずつ立体的にしてあるし!
『有翼スカラベ付き胸飾り』
展示番号79
これですね!!
人だかり!! 動かない! みんなじっくり見てました!
それもそのはず、この美しさ、てんこ盛り感(笑)!
図録に裏から見た図が載っていますが、下の花々は太目のワイヤーに通してぶら下げてあるんですね~!
前後に揺れるのかな、なんて想像。
下の花々は、後ろから見えないのに裏も丁寧にしているので、ぶらぶら揺れて裏も見えてオッケーだったんじゃないでしょうか! ああ、揺れるって美しい!
両端の紅玉髄も、金の受け皿にはめ込んでるんじゃなくて、包むようにしているのですね。光が綺麗に透けて、それはもう動くたびに色合いが変わっただろうなと!思いました!
『象嵌細工のある大型壷』
展示番号81
これは背が高い壷でしたね!
図録にあるものは、後ろから光を当ててアラバスター(方解石)が燃えるような色を呈するところを見せてくれていますが、
展示室では普通の柔らかな光で、オレンジがかった半透明の石肌が見えました。
同じアラバスター性のものでも、展示番号90『ロータスの花とつぼみを象った杯』は、展示ケース内で後ろからほんのり照らされるようにして、オレンジ色が浮かび上がっていましたが、図録のものは乳白色ですね。
展示番号59の『キヤ妃のカノポス壷』もそうですが、アラバスター製のものは生で見てみると印象がだいぶ変わることがあります。この壷、キヤの特に鼻の辺りが、半透明でつるつるで綺麗でした~! 美しい!
『ライオン飾りの付いた化粧容器』
展示番号88
これも楽しみにしていました!
アラバスターの白と、深い藍色のコントラストが素敵ですよね!
てっぺんに王がライオンの姿でくつろぎ、側面はライオンや犬が獲物に噛み付いている。もう、征服!ッて感じの。
実は今の今まで気づかなかったのですが、底の部分に(踏みつけられるような形で)人の顔が付いていたんですね……。
しかも、そのうち二つは色が黒いしどう見てもヌビア人で、残り二つは、褐色なんですけど、別々の外国人ッぽいです。耳のあたりからあごまで幅の広いひげがあって頭が禿げてるのと、頭に髪があってひげもちょっと少なめなのと。
図録には、ヌビア人の一対とアジア人の一対としか書いてませんが、アジア人はヌビア人に比べて区別されているように感じます…。
『高脚付きチェスト』
展示番号91
ツタンカーメン王墓から出ているものですが
展示番号94『カルトゥーシュ型の箱』といい、三色のバランスが本当に美しいです。
このチェストは赤茶、黒、金の三色で、落ち着いた色合いで高級感もあり、現代の家具としておいても差し支えないと思うほどです。
箱のほうは、赤茶と黒と象牙のオフホワイトがいいバランスで、特に上の王名の部分の配色が素敵だなあと思います。
前述のとおり、展示番号18『アメンヘテプ3世とティイ王妃の銘入りチェスト』とよく似ています(特に下の、ネブ籠の上のアンクとウアスはそのまんま…決まったデザインだったのかな?)が、こちらには布が張っていないようです。もしかしたら、当時は張ってあったとか…?
細かいことですが、ぐるりと見て回って、前面右側の脚が少し形が崩れてることが気になり(笑)、
また、これら四本の足は、どれも下に行くほど微妙に太くなっているような気がしました…。そのほうがバランスもとりやすいでしょうしね…。
『ツタンカーメンの銘入りガラス製枕』
展示番号95
これは何度か本などで見ていて、
真っ青なので、ラピスラズリを模したファイアンス製だろうと勝手に想像していたんですが、
なんと、ガラス製!
そうしてよく見ると、確かに、ガラス! 濃く色が付いてるけど、確かに透けてる!
これは図説でも分かりづらいです。生でよく見ないとなかなか気付けそうにないなと思いました…。
こんなに均一に色が付くものなのですね……何も知らずすみません(笑)。
『ツタンカーメンの棺型カノポス容器』
展示番号101
きました、目玉のひとつです!
もう終わりごろになって展示されています、ぐるっと見て回ろうと思ったら、360度まわりかけて次に進められてしまい、元に返ってもう一度見ることができませんでした(涙)。
棺と同じように、前と後ろ(上と下というか…)で分かれるようになっていて、展示では、それを開いて中も少し覗くことができました。
カノポス壷が4つあるように、この容器も4つずつあると思うのですが、これは前面縦に入った銘を見ると、イシスが守るとされたもののようで、前面の内側には、イシス女神の姿が描かれていました。背面の内側は、びっしり呪文です。
同じように、ネフティス、ネイト、セルケトの名が刻まれた銘が残りのカノポス容器にそれぞれあって、名を記された女神が内側にそれぞれ描かれているのかなあと想像しました。
『ツタンカーメンの黄金の儀式用短剣と鞘』
展示番号103
これは。驚くほど美しいです。一見の価値はありです。
柄の部分の細かい装飾、鞘のリシ模様の象嵌、裏の浮き彫りで表された動物たちの狩の様子。
本当に美しいのですが、図録にもあるとおり、私も、このデザインはあまりエジプト的でないなあと思います。
でも、綺麗です、素直に。はい。
底の模様は展示中に注意して見ませんでしたが、図録のほうに丁寧に写っています。美しいです。
『チュウヤの人型棺』
展示番号107
きました黄金の棺。でっかいです。ラストを飾る大物でした。
本当に状態がよく、象嵌はさほど多くないですが、ヒエログリフも神々の図像もとてもはっきり見ることができます。
こういうものの、神様が誰かを当てる(もちろんヒエログリフを探して)のが楽しくてですね…。
展示番号29『アメンヘテプ2世の船の模型』でもそうでしたが…後ろのほうにメンチュ神がいっぱい描かれてるんですよね。ヒエログリフ見ないと分からないじゃないですか。前のほうの、太陽円盤を乗せた隼は、アメン・ラーでしたし…。ほかにも何かちょこっと書いているみたいですが、確認できず(汗)。図録、反対側を拡大してよ(笑)!
置いといて…。
えと、この棺はいろいろ典型的で楽しいです。
まず、頭の後ろにネフティス、足の裏にイシスがいます。
そして胸の上には天空の女神ヌトが羽を広げています。
側面には、アヌビスを始めホルスの四人の息子たち。左右どちらにも、中央にアヌビスがいて、左は前がハピ(頭部がヒヒでなく人型です)、後ろがドゥアムテフですね。すみません、図録見ながら言っているので、載ってない右はわかりませんが、真ん中は確かにアヌビスでしたので、あとイムセティとケベフセヌエフがいると思います。
それと個人的に面白いと思ったのが、この棺だけじゃなく展示番号98,99『子供の木棺(外棺と内棺)』にも描かれていた図像ですが、
トト神が天空「ペト」を棒か何かで支えているんですね。
いや~これも典型的なのかもしれません?が、今まで気づかなかったです。他ので見たかなあ? この時代に流行っていたのかな?
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とりあえずこんなところで…。
やはり、実際に目で見ると、その時間分印象に強く残るし、
また本などでは気付かないもの、印象が変わる物が出てきますよね。
学術監修をされた廣田吉三郎氏(古代エジプト美術の専門家)が、何度見ても新しい発見があると言われていたのですが、本当にそうなんだろうなあと……。
うーん、生で見る機会に恵まれて、本当に幸せです。
こういう機会をできるだけ増やしたいなあと思います。
●図録
最後に図録のこと。
A4より少し大きいサイズで、けっこう分厚い図録は、一冊2500円。
文のほとんどをザヒ・ハワス博士から提供され、変更などは許されなかったそうで、そのまま訳されたようです。
(写真はイタリア人写真家サンドロ・ヴァニーニ氏の撮影によるものだそうです)
画像は背景を黒、大きく、ものによってはいくつか別の角度で写してあって、とても美しいです。
先に述べたように、図像でないと(肉眼では)見えづらいところもありました。映りもよく、もう大満足です!
一つ一つに丁寧に解説があり(ザヒ・ハワス博士らしい視点と言葉で)、後ろに用語の説明、神々の図像つきの説明も付いています。
個人的に何より嬉しかったのが、
監修や翻訳された専門家の方々が、それぞれ見開きで興味深いコラムを書かれていることです。
これらがあることで、図録は作品解説以上の価値を持つと常々思っている私です。なんて幸せなんだろう!
「ネスウト・ビティ」名について近年提唱されているという解釈、
古王国時代の正妃の称号「ホルスとセトを見るもの」、
アンク壷の起源、
『人間絶滅の物語』における「ことばあそび」、
メソポタミアとエジプトの差異……
あ、なんか、一部の説明と全体の説明をごちゃ混ぜに書いてすみません…
とにかく、どれも面白くて、
メソポタミアとエジプトの違いなんて、漠然と思っていたのがこうはっきり書かれると、もっと知りたいと思うし、
言葉遊びなんか、自分はすごく興味がある分野で、それをピラミッドテキストとか具体例を挙げて説明していただいちゃうと、もっと、もっと!ッて思っちゃいます(笑)。
いやー……
こういうコラムがメルマガで送られてきたらどんなに幸せだろう(妄想したな)!
帰ってきてさらに楽しみました、本当にありがとうございました!
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さいごに
黄金のマスク、
自分知らなかったんですけど、40年以上前に日本に来た後、どこかの展覧会で傷が付いたらしくて、
「もう外に出さないだろう」ということでした。
しょうがないですよね…。
いやあ、マスクだけじゃないですしね…。
今回の展覧会は、古代エジプトの一級美術、知らない人にも魅力が伝わる最上級のものが集められましたが、
死生観がよく分かるマニアな物や、日常生活が伝わるものなど、古代エジプトの遺物にはさまざまな魅力がありますよね!
まだまだ、たくさん見たいです!
●映画『ピラミッド5000年の嘘』のこと
ツイッターで情報が流れてくるので知りました。
タイトルから、ちょっと嫌な予感はしてたんですが
公式サイトに行って、予告編を見て、
ああ、ニューエイジ系だな、ということはよく分かりました。
公式サイトをリンクするのがちょっと躊躇われるので
興味がある方は、検索してみてくださいね。
古代エジプトファンとしては、
毎度「古代エジプトを馬鹿にするなーー」と思わされる(笑)あれです。
(↑こういう姿勢もどうなのか…笑)
こういう類のものの主張はいつも
「こんな凄いものを(古代エジプト人が)作れるはずがない」、から始まっているので(笑)。
昔いくつか読んだことがあるので(何も分からず……って今も分かっちゃいませんが)、
すごく懐かしいです。
ピラミッドパワーとか黄金比とか、ピラミッドのこの部分の長さを何倍すると宇宙の神秘が分かるとか…
最近は、スフィンクスの下に秘密の部屋があり、超古代文明の何かが隠されてる、とかよく聞きます……ザヒ博士がよく困ってました…。
あれを今、改めてやるのかーと。
見に行くつもりの方に、
ひとつ、ご紹介したいブログ(レビュー)があります。
ちょうどさっき
エジプト考古学者のブログでそのことに触れられていたので
(あ、日本人なので日本語です、大丈夫!)
(というか監修を頼まれたとか……びっくりです)
専門家の見方ってことで、勝手ながら、ご紹介させていただきたいなと。
そこでは同僚であるエジプト学者達の意見が歪められ、紹介されていた。
・・・
「(自分が)研究しているのは中身についてであって、作り方については研究していない」と語ると、「エジプト学者は作り方の研究を全くしてない」という紹介をした。
ピラミッドを宇宙人が作った可能性もゼロではない。だがピラミッドに残された加工痕、周りに堆積した石灰岩の瓦礫やその中の土器片や動物体、ピラミッドの周りの複合建造物、そして彼らが住んだ「ピラミッド・タウン」などから判断すると古代エジプト人が作った可能性のほうが圧倒的に高い。
抜粋なんかしたくないのですが
(全部読まないと誤解されるかもっていうのが怖いので)
私がとにかく、これなんだって思うところだけ。
上の、事実の捻じ曲げは、
やりそうなことですが、
やっている、と意識しないとなかなか気づけないことですよね。
そしてその下。
「宇宙人が~」の部分は思い切ってかかれてますが、
実際のところ、「100%とは言い切れない」というのが本当で。
専門家もそれを認めていると思います。
けれど、続けて書かれている通り、
99%は、そうだろうという物証があるわけですよね。
残り1%(もないかも)は、宇宙人に限らず、超古代文明も、何でも、当てはめようとすれば当てはめられるはずです。
100%は分からない、だから反論はできない、というところを
100%じゃない、だから違うだろう、とされてしまうのが、パターンですね……。
あとは、言い方ですよね。
建造物(ピラミッド)に、またはその周りに残された、
人(古代エジプト人)の関わりを示すさまざまなものを無視して
憶測でしか語られず
その人物像も文明の様子も何一つ具体的でないものを引き合いに出されてるわけなので
考古学者も、反論しようにも、同じ土俵に立ってない、という感じがしてしまうと思います。
歴史の流れや、同時代のほかのもの、さまざま連続・比較してみるべきものを、そこだけ切り取って見てしまっている。
故意かそうでないのか、こちらの説明に耳を貸してくれない(上記のような、逆説的な受け取り方ばかりする)。
だから
ザヒ・ハワス博士みたいに、「そんなものは、ない!」と言うしかなくなって、
よけい反感を買う、憶測を呼ぶのかもしれませんね…。
予告編にもありましたが、
ピラミッド(ここではクフ王のもの)を作るのにかかった年、
かかわった人数、また建設方法(第一ここが一番重要なのに、一番謎)さえ、
専門家のなかでも、「これで間違いない」と言えるものがないのです。
そうであろうと考えられている、程度で、よく聞くと「だけど、まだ詳しくは分かっていないんだ」ということになっているはずです。
つまり、その数字や方法は、正しくは専門家にも「謎」で、
こうなのでは、という、あちこちの数字をつなげたものを、一般の本では「一応」説明としてあげているのだと思います。
それに対して、おかしいと突っ込みを入れ、更に
「だから、専門家の言うことは信用ならない」と決め付けてしまうのは
困ったことだなあと思いました…。
毎度思うのは
「どう考えても彼らには不可能だ」=「これは超古代文明(または宇宙人とか)の産物だ」
という感じなんですけど、
その、超古代文明とかでは、どのように作られたかの説明は全くしようとしないところが、面白いですよね…。
専門家はどう見るかというと、
可能、不可能を考える前に、
物証を探しますよね。
それがあれば、不可能に思えていても、事実そうであったと認めるしかない。
そういうものだと、知ってるんですね。
「エジプト学者たちは真実を隠している/事実を見て見ぬフリをする」
という言葉は昔から使われていて、
そうなのかなあ、なんて思ったこともあるのですが(笑)、
何のことはない、専門家たちも、「謎であることを認めている」んですよね。作り方とか。年月とか。
ただ、それを、だからといって何の証拠もない超古代に結び付けることをせず、よりつながりとして見えているものを検証しようとしているだけなんですよね。
ただそういうのは、地道で、新しいことはなかなかでてこない。
また、聞いていても専門的でよく分からず、取り上げられることもなくなって、
私たちは、そういうことを、知らないだけなんですよね。
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エンターテイメントってことで楽しんだり
今でも分からないことがいっぱいあるんだなあ、と思って見るのは、いいかもしれないですが、
「エジプト学者はちゃんと研究してるのか」と思われるのだけは悲しいなと思います。
それだけが、気になりました。
●続・ニヘムスバステトの墓
日本の記事ネフメトバステトで通ってる気がして気になってます…
ということは置いといて。
http://www.bbc.co.uk/news/world-middle-east-16576265
月曜のうちに棺の中見てたーー!
ミイラ、ちゃんとあるんだそうです。
綺麗に包まれていたそうで。
木製の棺が無事だったので、中も大丈夫だろうとは、思ってたのですが、
中だけ持ち出されてたり、よくあったそうなので(包帯に護符が巻かれていて、それが貴石や貴金属であったから)。
記事にあることをいくつか。
・この墓の上縁を見つけたのは、去年(2011年)の1/25、エジプトで革命が始まった日。そのため鉄の扉で入り口をふさいだ。
・今年の発掘シーズンが始まったのが先週。調べてみると、おそらく盗掘されていない状態(王家の谷では非常にまれ)の、墓であることが分かった。
・王族のためでない墓は、王家の谷にも他にあるが、ほとんど18王朝のもの。22王朝のものは珍しい(とはいっても、この墓そのものは18王朝に作られたものだそうですが)
・この墓はトトメス3世の墓の近くにある、壁に装飾のない墓の一群のひとつである。
・2006年に発見されたKV63(ツタンカーメン以来初めて王家の谷で発見された墓)には棺が7つあったが、どれもミイラを含んでいなかった。
つまり
ツタンカーメン以降、王家の谷で初めて棺入りのミイラが発見された
ということでしょうか。
ちょっとセンセーショナルな(?)書き方をしてみました(笑)
傍に置かれたステラの詳細と、
棺に書かれたヒエログリフが気になるところです。
クリーニングにはしばらくかかりそうですね。