古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●第一王朝の埋葬・つづき
http://ngm.nationalgeographic.com/ngm/0504/feature7/text2.html
1967年オコナーが、ピートリーの発見できなかった周壁を探索するためアビドスへやってきました。
ほとんど20年ほどして、shunehの影を掘っていると、彼はまったく予想外の発見をしました。
彼が発見したのは、初期王朝時代の、
14隻のボートのうちのひとつでした。
それらは、まだ知られていない王の、周壁の近くにあった、レンガで並べられたそれぞれの墓の中から発見されました。
長さ23メートルのボートは、非常に巧妙に作られ、完全に機能的な状態で埋められていました。
それらは、(葦製のものや、丸太をくりぬいて作ったものとは違って)板で作られたボートとして現存する世界最古のものと考えられました。
「ボートは、アビドスで発見された使用人に似ています」
とオコナー。
「王は、生前と同じようにこれらを使用すると考えられていました。
この世で王は、これらのボートを用い、ナイル川を航行することによって、強力な財産と軍事力を誇示することができました。
古代エジプトの王は、来世でも王となるとされたため、これらのボートは有用なツールだったのです」
その後、2002年に、アダムズはアハ王の封泥のあるワインつぼを発見し、
ついに葬祭周壁も発見されました。
周壁の層にたどり着くと、6つの周辺墓が発見されました。
3つは、成人女性の遺体で、うち1つは男性を抱え、
また別の1つは小さなピスラズリで飾られた25の象牙の腕輪をつけた幼児を抱いていました。
六つ目の墓はまだ掘り起こされていません。
どの場合を見ても、考古学的資料は人身供犠を示しています。
「墓は、まず掘られ、レンガを並べられて木材で屋根を作り、泥レンガを積まれました」
アダムズは言います。
「泥レンガの山の上に、周壁の外から広げられた石膏がかけられ、すべての墓を覆いました」
石膏の覆いは継ぎ目がありません。それは、すべてが同時に埋葬された以外にないということを示す、重要な手がかりです。
なぜなら41人もの人が――彼の墓の35人と、周壁から見つかった6人――同時に、自然に亡くなることは、まずありえないからです。
また別の可能性としては、バラバラの時間に亡くなった彼らの遺体を保管しておき、一緒に葬られたかもしれません。
しかし、オコナーとアダムズによると、これらの証拠は犠牲による死を強く示唆しているといいます。
では、どのようにして殺されたのでしょうか。
ピートリーは墓穴の中に、墓に埋める前に動いた跡を見たと信じ、埋葬時には生きていたか半分意識のあった状態だったと主張しました。
ブレンダ・ベイカー(アリゾナ州立大学の自然人類学者)は、アハの取り巻きのすべての骨を検証しましたが、外傷の跡は見つかりませんでした。
「死亡原因は未だ謎に包まれています」
と、アダムスは言います。
「私の推測では、彼らは薬物で殺されたのではないかと思います」
ナンシー・ラヴェル(アルバータ大学の自然人類学者)
は、圧死ではないかと考えます。
アハの墓から出土した頭蓋骨を研究したところ、犠牲者の歯の内部から証拠が見つかったというのです。
「絞殺される場合」彼女は説明します。「増加した血圧は、歯の内側の血液細胞を破裂させ、エナメル質の真下の部分である象牙質を汚します」
他の古代世界でよく見られたように、
古代エジプトにおいても、人身供犠が行われていたことは明らかなようです。
レナード・ウリー卿の現代イラクのウルでの1920年代および'30年代の間の発掘では、紀元前2500年にさかのぼる、メソポタミアの王および女王に関連した何百もの犠牲の墓が発見されました。
犠牲を立証する証拠は、ヌビア、中央アメリカ、また他のいくつかの古代の文化にも見られます。
エジプトでは、この冷酷な習慣は急速になくなっていったようです。
アハの付属墓は、発見され得るもっとも最古のものと考えられます。彼の後継者であるジェル王は、熱意をもってこの習慣を受け入れ、300を超える墓をすぐそばに用意し、その他269もの墓は死体仮置き場の周壁を囲みました。
しかし、第一王朝最後の王カーは、彼の墓のそばに30に満たない付属墓をもつだけで、その周壁も失われたままです。
第2王朝になると、この習慣はすっきりなくなってしまいました。
オコナーは、王のスタッフが反対したためにそれらが無くなったのではと考えます。
「これらは、エジプト人が文明化されたために無くなったと考える傾向があります。しかし私は、それは私たちの偏見だと考えます
これらの墓は、比較的高い位の人々を含んでいたので、止められた理由は倫理であるというより政治的なものかもしれません」
おそらく、死後にも王に仕えることができるのはひとつの名誉だったでしょう。しかし、待つことができるということもまた、一つの名誉だったのです(?)。
第3王朝になると、ファラオたちはサッカラの400キロメートル下流に彼らの墓を建てはじめ、そこから新しい伝統が発生します。
個別の墓と周壁は、儀式用の囲いの壁によって仕切られた、巨大なピラミッド墓を含む単一の複合体となりました。
アビドス出の王の大規模墓地は、その後700年もの間、放置されていました。
中王国時代に、オシリス信仰がエジプトの主要な力をもち始めると、来世の王であるオシリスは、エジプトでの初めの王であると考えられました。
そのため、ファラオはオシリスの墓を見つけるために、アビドスに聖職者を派遣し、第一王朝のいくつかの墓を発掘させました。
その結果、ジェル王こそがオシリスに違いないと結論付けられたのです。
こうして、アビドスはエジプトにおけるメッカへと変わりました。
その後2000年にわたってセンウセレト3世およびラムセス2世を含む数人のファラオが、オシリスのために巨大な葬祭殿を構築しました。
毎年、何十万ものエジプト人が――ファラオも農民も――オシリスの復活に関する祭典に参加するために、巡礼を行いました。この祭典は、神王を讃えて建てられた小さな一連の礼拝堂を通り過ぎるように町をあちこち巡り、そして乾燥した河床を上がって葬祭地へと向かう、凝ったパレードでクライマックスを迎えました。
オシリスの墓に到着した巡礼者たちは、彼らの先祖――千年以上前に犠牲にされた王家の職員たち――がすぐ足の下に埋められていることなど、まったく知りませんでした。
来世に個々の道でオシリスの祝福が受けられるように、崇拝者たちは果物で満たされた小さな供物の土器つぼや薫香を運びました。
今日でも、死からの目覚めによって永遠の生を得られることを願った人々による、大量の陶器の破片を見ることができます。
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発掘の過程などの細かい表現を省いています。
前回、「殉葬」と訳していた“human sacrifice”ですが、「人身供犠じんしんくぎ」というぴったりな言葉があったようなので、このページでは変更しました。
殉葬って、広辞苑に載ってなくて。っていうかどこで覚えたんだろう……?