古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●第一王朝の埋葬
http://ngm.nationalgeographic.com/ngm/0504/feature7/index.html
久々に勉強っぽい内容きましたあ。
でもこれ、2005年4月のものです。
初期王朝時代の王墓は
ピラミッドはもちろんまだ作っていなかったですが、
殉葬という形で、家臣たちも王と一緒に殺され埋葬されたと考えられています。
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「戦うもの」アハ王は、
二国統一の交戦中に死んだのでも、首都メンフィスの建造中に死んだのでもありません。
伝説では、エジプト最初の両国統治者は62年の治世の後、狩での事故――無礼にも暴れまわったカバに踏みつけられたこと――で亡くなったと言われています。
彼の死去のニュースは、彼のスタッフにとって個々の特別な恐怖をもたらしたでしょう。
多くにとって、この世で王に仕える名誉は、死後の王に仕えるということに比べればより曖昧な意味合いを持っていたでしょう。
埋葬日に、王への最終的な献身として、6人が来世でのワインや食物などの供物とともに毒殺され、埋められました。
ひとりはまだ4、5才で、おそらく王に愛された息子あるいは娘で、象牙やラピスラズリなどで飾られていました。
王の墓には来世での生活のための多くの供物が蓄えられ、
その墓のそばに、30を越える墓が三つに整然と並んで作られ、
ライオンが何頭か殺されて個々の墓に埋められました。
王の遺体を埋葬室に降ろすと、
忠実な家臣および使用人のうち何人か(特別選ばれたもの?)が服毒し、来世も王に仕えたといいます。
―――これが、紀元前2900年のファラオの埋葬のされ方である、と考えられていました。
実際、人を犠牲にささげていたという確かな証拠がみつかったそうです。
アビドスの王の埋葬複合体は、二つの個別の組織、墓と儀式用の囲いからなっていました。
墓が西方砂漠――古代エジプトで死者が住むとされた場所――に建てられた一方、
大きな壁に囲まれた死体の仮置場でもあった施設はそれより一マイルも離れた町の端に位置していました。
第一王朝の墓と儀式用の囲いは、これまで発掘されたものはすべて、エリート高官や王のとりまきの付属墓が――ときに何百ともいう数で――発見されます。
エジプト学者たちは、この墓が葬祭の犠牲によるものである可能性を長く推測してきましたが、
彼らが王の下に埋葬されるためにもともと準備されていた(予約)墓であった可能性も捨てきれずにいました。
古代エジプト人が殉層を行っていたかという問題は、1800年代の終わり以来考古学者の好奇心をそそりました。
フランスのEmile Amelineauやイギリスのピートリーらが1902年までに第一王朝の墓をすべて発掘しました。
それらは著しく略奪されており、宝石で飾られた片腕以外、王の遺物は見つかりませんでした。
しかし、まだ発見すべきものはいくらか残っていました。
アハ王の墓には、多数のワイン容器、道具、ある宝石および食物のサインがありました。
墓のそばで、ピートリーは35もの付属墓を見つけました。公表された書類の中で強調はしませんでしたが、彼は人間の犠牲をほのめかしました。
後に、1980年代の終わりに、ドイツの考古学者は、少なくとも7頭の若いライオンの遺物の覆いを取り去りました。
ピートリーの時代に建っていた唯一の葬祭周壁は、第2王朝のカーセケムウィによって構築された4600歳のShunet? el-Zebibのものでした。
三階建てほどの高さのshuneh(倉庫)は、ほぼ2エーカーの空間を囲む壁で、いまだ景観を占めています。
ピートリーの仲間の二人が、第2王朝の王ペリイブセンの周壁を発見しました。
ピートリーは1920年代に戻り、何百もの付属墓を発見しました。
付属墓は三つの、第一王朝の周壁に囲まれていました。しかし実際には、ピートリーはそのうちの一つをみつけたに過ぎませんでした。
これらの発見は古代エジプト学者に、まだアビドスの半分を発掘したにすぎず、
発見された墓に対応する墓が、都市の端にまだ存在するに違いないと推測させました。
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・・・続きはまた明日(汗)