古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●ミイラ博物館講義-カーセケムウィ-(byマシュー・アダムス)
http://luxor-news.blogspot.com/2009/04/mummfication-museum-lecture-khasekhemwy.html
***
アビドスのカーセケムウィ葬祭周壁について-マシュー・アダムス
これは長く続いた習慣の最後の構造でした。
アハ王のものは二年前に発見されました。
それらはすべて、儀式用の空間を囲んだ長方形で、犠牲となった取り巻きたちに囲まれ、アハ王は6つの墓をそなえていました。
ジェル王は彼の葬祭周壁のまわりに269と、また彼の墓のまわりに300もありました。
西のマスタバと呼ばれている、おそらくデブ王に属すると思われるものは、75メートルのボート塚が14そなえられています。
他のものは先王朝時代か第一王朝の印章があり、デン王やアハ王より早期の、もしかしたらナルメルのものかもしれません。そこには10のロバの墓に囲まれています。
第一王朝は アビドスに埋葬され、
第二王朝初期はサッカラに、
後期は再びアビドスに。
カーセケムウィはアビドスに埋葬された最後の王です。
これらの記念建造物が建てられてから10~20年後には、すべての葬祭周壁は慎重に倒壊されました。
床は50センチほどの清潔な砂で覆われました。
また、献酒がこの砂の上に注がれたという証拠があります。
これらの記念建造物は、自然な腐食によって失われたのではありません。
たった一つの壮大なものだけが、景観を支配することを許されたように思えます。
カーセケムウィの後、アビドスは王たちによって放棄されましたが、その地域はその後も多大な敬意をもって扱われていました。そこには700もの墓がありますが、そのままにされていました。
中王国時代に、オシリス信仰が確立し、ジェル王の墓はオシリスの墓とみなされました。
ここでは神話や宗教劇が演じられました。このことから、墓は周壁の内部ではなくこの地域そのものを侵食し始めます。
紀元前100年になって、内部で初めて活動され、神聖動物の大規模墓地とされました。
ローマ期の終わりごろになると、僧院となり、小部屋が壁に切り開かれました。
・
・
・
***
あれ、カーセケムウィの話が少ない……。
しかもところどころよく分かりません、すみません。