古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
『「太陽の哲学」を求めて』-エジプト文明から人類の未来を考える-
梅原猛・吉村作治 PHP研究所
前記事=http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/81/
読み終わりました。
一言で感想を言うと、こうです。
ああ、やっちまった……。
どうやら、梅原氏の疑問について、吉村氏が答えていく、という形を取っていたようで、
梅原氏の、「一神教が今の社会を作った。一神教の考えはよくない。だから、原点(エジプト)に戻って、自然を崇拝しろ」と。
私の苦手な思想に帰結します。
梅原氏が、アクエンアテンやモーゼの出エジプトにこだわっている辺りから、もう、「ひえー」って感じで……。
前の記事に書いたとおり、自分はその思想が苦手なのです。個人的に。
一神教の「元」という観点でエジプト宗教を語るとき、重要なのはアクエンアテンの改革と、そしてイシス女神。
マリアの崇拝はイシスから来た(これはよく言われていることですよね)。一神教を初めてやったのは古代エジプト人だ。だから、エジプトはすごい! と、こうなる。
エジプトの、他の神々の役割や重要性は、一切無視です(あったとしてもラーやアメン、プタハくらい)。それでエジプトはすごい、あのときのように自然を崇拝したら現代はよくなる、って言われても……。
実は、自分のサイトで、吉村先生の本を紹介していないのは、読まないからです。
というのは、どうも、先生の考えが自分と合わない。これは、仕方ないと思うのです。
理由はもうひとつあって、
現役の考古学者で、当然、自分なんかは及ばない(比べるのもおこがましいですが)知識がたくさんあって、すごく活躍されているのですが、そういう知識について触れられる吉村先生の本って、あんまりないような気がして(って、数冊そうだったので、もう諦めたというだけですが)……。
どうも、口述筆記が多いような気がするんですよ……。
この本もそうですが、そうなると、色々(ちゃんと確認していないから)間違えも、当然、出てしまうと思うのです。
自分のように、それが正しいかどうかをちゃんと判断できない人間にとっては、知識を得るものとして、ちょっと、怖いのです。
まあ……あれです。
私には合わなかったけど、
日本神話が好きでエジプトにもちょっと興味がある人、とか、
一神教の成立とエジプトの関係に興味がある人、なんかには、いいのかもしれません。(聞いたことある内容が多かったですが)。
『天使と悪魔』の映画化の話題にのってしまえばいいのじゃないかと思います。『ダヴィンチ・コード』とか。
ギリシア哲学に影響を与えたエジプト宗教、でもいいかも。
ただし、聞いたことない内容もいっぱいです(吉村先生の発言が)。
ちょっと挙げてみます。
「そこはあんたが間違ってる」というところがあったら、コメント等で突っ込みしていただけるとありがたいです。
***
p49,51 『アム・ドゥアトの書(冥界の書)』というのがあり、--(中略)--七十日間のちょうど中間で、王の「バー(魂)」が蛇になって、蠕動[ぜんどう]運動をすることになっています。
クフ王のピラミッドの大回廊についての解説です。
前にTVで見て、その根拠はどこだろうと思ったら、アム・ドゥアトの書でした。
この書については、詳しく書かれた本を自分は持っていないので、内容が分かりません。ただ、どこでも「冥界での旅を夜の12の時間に分けて書かれている」と説明してあるのですが、70日ってどういうことでしょうか。ミイラ作りの期間? アムドゥアトにその記述があるように思えなくて。
また、この書は新王国になって初めて著されるものなので、古王国時代に同じ思想があったかというのは、ちょっと証明が難しいかもです。
どちらにしても、自分は詳しく知りませんので、蠕動運動で力を蓄える……という記述は(たとえば夜の6時あたりに)あるかもしれませんが……。
大回廊のなぞ。自分には、石を落とす道だといわれた方が、納得いったりします。
p66 スフィンクスが創られた--(中略)--地形とかピラミッドの配置とかでピラミッド建造の四十年くらい前と思われます。そして、名称自身が「シェプス・アンク=アンク神の御姿」といって、再生復活の神です。
アンク神。初めて聞きました。再生復活の神なのですか……。
それから、吉村先生は「スフィンクスはピラミッドより早く作っていて、スフィンクスがあったからそこにピラミッドを建てることにした」と、スフィンクスがそこにあるのは「ここから向こうが復活再生の地だということを示した、入り口の番人・守護神だ」と、こう考えているようなのです。
いろいろ、他で聞いたものと違う上に、根拠が示されないので納得いかないのですが、とりあえずアンク神についての説明が欲しいです。
p70 「オンの主」という意味のヘムオンという人がいて
ヘムオン(ヘムイウヌですよね。いや、昔からヘムオンだったのでいいと思うのですが)、ヘムは「主」じゃなくて「僕」ですよね……。あれ? 意訳?
それに、ヘリオポリスの説明に「イウヌ」をまったく用いず「オン」なのは(それも、ベンベン石などの説明を入れてるのに)……相手が梅原氏だから? オンに「神聖な中心地」という意味は本当にあるのですか? ヘブライ語??
p110 「アマルナ改革」といわれているアテン神だけを選択する改革の生き残りが、そのヘブロの人々と一緒になって、そこで新しい宗教をはじめたのです。
アテン信仰と旧約聖書の一神教成立は無関係かと思っていました……。
p115 『ナイル賛歌』とか『愛の賛歌』など、アクエンアテンの作った詩が
『ナイル賛歌』の成立は中王国時代と聞いてます(古代オリエント集より。さらに「現存するテキストはすべてラーメス時代」と書いてます)。あれ?
p138 (モーゼが)犯罪者として追われてシナイ半島に逃げます。そして、そのままそこに住もうと思って、族長の娘と結婚しますが、やはり自分の仲間たちのことが気になってエジプトに戻ってきて・・・
えっこれってシヌヘ!? 族長の娘と結婚して、でも戻ってくるとか……。本当に「出エジプト記」にこういう記述あるんですか!?
p198 古代エジプトでは、人間は「カー(精霊)」と「バー(魂)」と「アク(肉体)」という三つの要素から出来ている。
「アク」って、あのアクですよね!? 鳥の!?
それが肉体を示すなんて、初めて聞きました。
確かに、この三つを正確に定義することは難しいと思いますが……アクが肉体……どうもよく分かりません。
本当はもっと、チョコチョコあるのですが、
特に気になったのが以上です。
あ、でも、面白いところもありました!(以下、どちらも梅原氏の言葉)
p52 「大嘗祭」というのは、前の天皇が死んだ後、死んだ天皇の魂が次の天皇に乗り移る儀式です。このとき、天皇は前の天皇の亡骸とともに寝て、その亡骸の匂いが移ることによって新しい天皇としての魂を獲得する
これがピラミッドで行われたのではないか、という梅原氏の想像です。
面白いな、と思いました。似たようなことを、「オリオン・ミステリー」で読みました(ここで出すなって感じですか・笑)。
ピラミッドテキストでそれらしい……というか、王が死んで天にゆき、オリオンとして力を得て、ふたたびホルスとして地上に復活する、ということが書かれています。
相当するとしたら、この部分でしょうか。
神々の父オリオンによりて
「大いなる力」の許状、彼に与えらる。
ウナス、ふたたび天に現れ、
「地平線の主」として戴冠す。
(古代オリエント集p588<§408> 屋形禎亮 訳)
ああ、なんだろう!この部分、なんだか説明難しいです……。
つまり、亡くなった王の魂が新しい王に宿る的な表現に見えなくないという……。
……どこが一緒なんだと思われたらすみません。
p203 エジプト思想がもっている深い霊的なものを、プラトンは理性的な概念に変えてしまった。
すごく納得。さすが哲学者ですよね……。
でも、そのせいで、ギリシア哲学側からエジプトを見ることが多くて、なんか、偏ってるよなーと思ってしまうわけです。
***
全体的に、思想的な話が多く、根拠が少ないです。
梅原氏の「想像」について、吉村先生が「違う」ということがない。
エジプトの神殿の柱がギリシアのそれより太い理由なんて、思想より素材や技術的な理由がはっきりあるはずなのに。
そういう「必然性」についての説明が、全体的に欠けていると感じました。
昨日読んだ「古代エジプト人の神々」が自分的にジャストフィットしていて、
この本は正反対をいってる感じです。
結局、物事を西洋的な観点から見ているなあと……。
2008年10月に、吉村先生がこう考えていたと。そういうことで……。
寄り道していたら
素敵なサイト――と言うかPDF資料ですが――を発見し、
ちょっと見てみるつもりですっかり入り込んでしまった。
www.cismor.jp/jp/research/lectures/documents/report070317.pdf
関西大学文学部教授 吹田 浩氏による講演「古代エジプト人の神々」
(2007年3月17日 於:同志社大学 今出川キャンバス 神学館礼拝堂
主催:一神教学際研究センター、日本オリエント学会)
すごく分かりやすくお話してくださっています。
こういう本がもっとたくさん出ればいいのにと思います(これも本ではないですが)。
とにかく、読みたいものを読めました。
すごく、共感する部分が多くて、
たとえば、こことか……
われわれは、こういうもの(獣頭人身の神々)を見ますと、はじめは違和感を持つのですが、そのうち、すぐに慣れてしまいまして、エジプトというのは神秘の国であると思ってしまう。そして、それ以上の疑問を持たなくなってしまうのです。
あと、ここなんか特に。
神々の姿というのは、古代エジプト人にとって表現上の工夫であり、決してこだわりがあるものであったとは思えません。--(中略)--そのときに感じられる力が、ライオンの攻撃をする力であったり、あるいは墓場で感じられる死の力であったり、あるいは植物が持っている再生する力であったりしたわけです。その特性によってライオン、犬、あるいは、緑色の肌で神を描くことがるのですが、そのような形態、あるいは特色がシンボルとして使われていたように感じます。
最近、個人的に抱いていた違和感です。
壁画のとおりに「頭が動物、身体が人間」のものを、そのままリアルに表現したのが、古代エジプトの神のように思えなくて、
むしろ、「ローマ期の」もしくは「他文化から見た」、滑稽なエジプト文化の顕現のような気が、していたのです。
この考えは、この講演の中の最大のテーマで、
このあと、さまざまな例を挙げて、古代エジプトの神々の姿というのが、実際に動物の姿で信じられていたわけではないことを主張します。
興味深い指摘があります。
修復作業中の古王国時代の(おそらく貴族の?)イドゥートの墓壁の記述より。
(イマクート・ケル・○○という記述について)ここでオシリス、アヌビス、大いなる神、王という並べ方に関心を持ちます。ここでいう「大いなる神」という表現は、一体誰を指しているのでしょうか。
答えは示されませんが、まったく疑問に思うところです。
そして、指摘されているとおり、こういう表現がかなり一般的。一体、なにを意図していたのでしょう。
氏は、隠れた一なる神の可能性を指摘していますが、重要な(オシリスやアヌビス)神以外の神々をひっくるめて称えているようにも感じます。
それから、
中王国になりますと、変身の呪文というのがたくさん使われるようになります。
ここも、つい身を乗り出して見てしまいます。
たしかピラミッドテキストでは、たいしてあれこれ変身してなかったような気がするのですが、死者の書には間違いなくそれがあるんですよね。
その辺の違いも、なんだか気になっていました。
ここでは、どんなものに変身するのかを具体的に挙げてくださっていますが、
「鷹」からはじまって「ガチョウ」とか「下エジプトの大麦」「空気」ときたら、どうしてもヘリオポリスの九柱神(の、もちろん男神ですけど)を思わずにいられません。わざわざ説明は要らないかもしれませんが、ホルス、ゲブ、オシリスとシューです。
ちょっと考えすぎでしょうか?
ただ、そうすると、ピラミッド・テキストで王が多くの神々、特にヘリオポリスの九柱神と同一視されていた部分と、表現は違っても、同じだなと、そんな気がして……。
ああ、私の個人的な妄想は置いておきましょう(笑)。
このあと、変身が神にも及ぶことを指摘されていますが、
人間があらゆる神に変身しようとすることを「程度が甚だしい」と言われています。
私は個人的に、そういう文の内容を知る書記や神官以外の人々が、実際にそれを願っていたか、その内容を理解し求めていたかというのは、ちょっと疑問だなあと思いました。
つまり、ピラミッドテキストを書き換えて、それを単に写してるだけなんじゃないかと。
実際にそれを信じ求めていたのは、王様だけだったんじゃないかとか。
まあ、本当に妄想です。妄想が多くてスミマセン。
また、一神教というものの成立背景について、このような考えがあると示されていて、
これも大変興味深く読みました。
(アスマン先生がいうには)社会に危機が起こりますと、それを乗り切るために事態を説明して責任を負うもの、つまり多神教ではなく、一なる神を求めて一貫性のある神学を作り出していこうとする。
--(中略)--
一神教と言うのは、多神教における危機の度合いを示す尺度ということになります。
旧約聖書の成立を考えて、とても納得できるなあと。
また、本当の多神教は、古王国時代までだったのかもしれないと。思ったりしました。
いや、もっと言うと、国家が統一された時点で、ある意味多神教ではないと言うか……。
多神教という概念がなんだかよく分からなくなってきましたよ。
さて、話はアクエンアテンの宗教改革からその後の「個人の信仰心」まで進んでいき、
ここまでいくと、本当に聖書(新約のほう)にある神に近い「人のため」の慈悲深さをもった神に変わってきます。
偉大なる神(アメンを筆頭に、プタハなどについても)はますます全てを内包していき、それこそ本当に一神教のようです。
アメンエムオペトの教訓など、おそらく「古代オリエント集」から抜き出したと思われる訳がありますが、
こうして解説を加えられると、気づかなかったことに気づいたりします。
たとえば、この教訓の第18章にある、
悪しきこと[も]神に属するものにして、
神の指もて封印される。(?)
神の御手に成功はなし。
されど神の前に失敗もなし。
ちょっと、抜き出し方を自分の好みに合わせて変えていますが、
とにかく、善悪に分けたのは人間で、悪と思えることも神が望んでしたことだ、と。
深いですよね。
一神教向きの話をして、
「やっぱり全てはひとつの神である」という結論につくのはなんとも納得いきませんが、
間違いなく、後代にはそういう思想があったように思います。
とにかく、はっきりしたのは……
自分が描いてるのは、決して「擬人化」イラストではない、ということで(笑)。
獣頭人身のイラストがおかしいというわけじゃなくて(壁画は確かにそうなっているし)、
自分は迷いなくこれでいこう、と。
関係ない話ですみませんです。
『「太陽の哲学」を求めて』-エジプト文明から人類の未来を考える-
梅原猛・吉村作治 PHP研究所
・・・・・・図書館で借りてきました。
まだはじめのほうですが、えーっと、
梅原氏(哲学者だそうです)が、
日本の古代文明?とか、自然崇拝のようなものが、エジプトとよく似てる、ということを、はじめにとにかく強調してきました。
これが、吉村氏の言葉に影響されたためか(梅原氏は吉村せんせいの著書を読んだそうなので)、ご自身の考えと、吉村先生の考えが近かったのか、分かりませんが……、
吉村先生の考えの基本がここにあると、再確認した部分です。
エジプト学は、西洋のほうで盛んで、
そのため、そちらの方からしか見てこられず、どうしても偏った解釈がなされているものが多い、と。そういうのは、分かります。ある意味しかたがないかなと思うところです。
さて「はじめに」に、梅原氏は、こう書いています。
西洋文明の起源をギリシアの哲学とイスラエルのキリスト教に求める従来の歴史観がいかに誤っているか――中略――しかしギリシア文明やイスラエル文明の前に二千年も続いたすばらしいエジプト文明があった。
そのあと第一章でもこれを繰り返し、
人類文明をギリシアやイスラエルからではなく、エジプトから考えねばならない。
と、こうくるわけです。
陥りやすい思想だな、と思いました。
確かに自分も、日本で西洋の文化がかなり浸透していて(私自身についても言えることですが)基本、西洋的な考えで物事を見てしまってるなあと思うことがあります。
特に、聖書などについて、それを神聖視したり、神秘的なものととらえるものの多くは、それが「最古の」神の経典である、と。
それより前の文明をほとんど無視して、そう考えられたりすることを、不思議に思ったりします。
でも、だからといって、エジプト文明は、人類の文明の起源とはいえないはず。
シュメール人たちの文明は無視ですか……。
エジプト文明は古いけど、他にも古いのはあって、どれもひとつでは成り立たない。相互に影響しあっていたと思います。
そういう、「最も古い、たった一つのもの」を求めることが、だいいち西洋的(一神教的)な気がします。
同じ第一章に、吉村先生が言った言葉のうち、すごく納得できるなあと思ったのが、
(古代エジプト人は)二律背反したものをきっちり両手に抱え、相矛盾しながら、「ものごとは矛盾していいのだ」という前提からはじまっている
この一文です。
矛盾を受け入れる。バカボンのパパじゃないですけど、これって、エジプト文明の特徴なんじゃないかと思ってます。
というか、昔はどこでも持っていた思想なのかもしれません。
一神教の成立が、すべてにたった一つの答えを求め、結果、科学が生まれた。そういう意味で、現代文明の元は間違いなく、一神教であり、ギリシアやイスラエルの果たした役割は大きいと思います。
でも、その弊害もまた大きい。
ただ、弊害だけを見て現在を否定すると、「すべての原点に戻れ!」となって、
実際、そういう新興宗教もあります。
でも、戻れるわけがないわけで。
そんなわけで、すっごく個人的ですが「昔に戻ろう」という考えが、自分はあまり好きではないです。
現実的でないというか。
もっと、「昔を参考に」でいいから、戻らず前に進む考えがないかと思ってるわけです。
昔の自然崇拝もいいけど、私は科学も好きだよ!? 文明の利器とか大好物だ!
あ、自分のことは置いとこう。
さて、このブログのリンクに、
「アラびいき」という、素敵ブログさんを迎えさせていただきました。
タイトルどおり、アラブの生活を愛する方の、経験を交えた文化比較ギャグ漫画です。
自分が、現代のエジプト、とにかくアラブ圏の文化についてまったくしらないので、楽しく学びたいと思って。
その記事(漫画)のひとつに、
アラブでは、美人の美しさを「太陽」にはたとえない、そんなことしたら最低だと思われる(月にたとえると喜ばれる)……というのがあって、
たしかに、あちらでは太陽は悪いやつで(熱くて苦しいから)、月の方が称えられて、だから国旗に月があるのだとか、前に聞きましたが、
こういうことを考えると、なんだか、不思議です。
古代エジプト人は、確かに、太陽をあがめていました。
それが庶民のものでなく国家の宗教だといわれても、間違いなく、太陽は偉かったんです。
でも、今は違う。
まったくとは言わなくても、同じ民族、その血を引いている子孫も多いはずなのに。
で、こういうものを見ると、人は宗教や文化によって、変わってしまえるのじゃないかと思うのです。
「日本人は保守的な民族なのだ」とか、“○○人はこういう性質”みたいな決め付けが、自分には、よく分からない(まあ、自分もしてしまいがちなのですが)。
風土がそれを作るとしたら、それはやっぱり、生活環境とか、習慣とかなんじゃないかと。
だとしたら、昔、農耕していたころの人々の性質と、今、会社に行って、書面やパソコン相手に仕事する人々の性質と、同じなんてことがあるんだろうか。伝統として続いていることがあったとしても、性質といえるほど不変なものだろうか。
日本の今と昔。エジプトの今と昔も。
同じものって、なんだろう?みたいな。まあ、日本のことは半分くらいどうでもいいのですが、答えを出しても、日本に置き換えて当てはまらなかったら、それは違うということになると思うので。
そういう疑問について、すこしでも、「ああ、そういうことかも」と思える何かがあるのじゃないかなと思って、
続きもしっかり読もうと思います。