古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
寄り道していたら
素敵なサイト――と言うかPDF資料ですが――を発見し、
ちょっと見てみるつもりですっかり入り込んでしまった。
www.cismor.jp/jp/research/lectures/documents/report070317.pdf
関西大学文学部教授 吹田 浩氏による講演「古代エジプト人の神々」
(2007年3月17日 於:同志社大学 今出川キャンバス 神学館礼拝堂
主催:一神教学際研究センター、日本オリエント学会)
すごく分かりやすくお話してくださっています。
こういう本がもっとたくさん出ればいいのにと思います(これも本ではないですが)。
とにかく、読みたいものを読めました。
すごく、共感する部分が多くて、
たとえば、こことか……
われわれは、こういうもの(獣頭人身の神々)を見ますと、はじめは違和感を持つのですが、そのうち、すぐに慣れてしまいまして、エジプトというのは神秘の国であると思ってしまう。そして、それ以上の疑問を持たなくなってしまうのです。
あと、ここなんか特に。
神々の姿というのは、古代エジプト人にとって表現上の工夫であり、決してこだわりがあるものであったとは思えません。--(中略)--そのときに感じられる力が、ライオンの攻撃をする力であったり、あるいは墓場で感じられる死の力であったり、あるいは植物が持っている再生する力であったりしたわけです。その特性によってライオン、犬、あるいは、緑色の肌で神を描くことがるのですが、そのような形態、あるいは特色がシンボルとして使われていたように感じます。
最近、個人的に抱いていた違和感です。
壁画のとおりに「頭が動物、身体が人間」のものを、そのままリアルに表現したのが、古代エジプトの神のように思えなくて、
むしろ、「ローマ期の」もしくは「他文化から見た」、滑稽なエジプト文化の顕現のような気が、していたのです。
この考えは、この講演の中の最大のテーマで、
このあと、さまざまな例を挙げて、古代エジプトの神々の姿というのが、実際に動物の姿で信じられていたわけではないことを主張します。
興味深い指摘があります。
修復作業中の古王国時代の(おそらく貴族の?)イドゥートの墓壁の記述より。
(イマクート・ケル・○○という記述について)ここでオシリス、アヌビス、大いなる神、王という並べ方に関心を持ちます。ここでいう「大いなる神」という表現は、一体誰を指しているのでしょうか。
答えは示されませんが、まったく疑問に思うところです。
そして、指摘されているとおり、こういう表現がかなり一般的。一体、なにを意図していたのでしょう。
氏は、隠れた一なる神の可能性を指摘していますが、重要な(オシリスやアヌビス)神以外の神々をひっくるめて称えているようにも感じます。
それから、
中王国になりますと、変身の呪文というのがたくさん使われるようになります。
ここも、つい身を乗り出して見てしまいます。
たしかピラミッドテキストでは、たいしてあれこれ変身してなかったような気がするのですが、死者の書には間違いなくそれがあるんですよね。
その辺の違いも、なんだか気になっていました。
ここでは、どんなものに変身するのかを具体的に挙げてくださっていますが、
「鷹」からはじまって「ガチョウ」とか「下エジプトの大麦」「空気」ときたら、どうしてもヘリオポリスの九柱神(の、もちろん男神ですけど)を思わずにいられません。わざわざ説明は要らないかもしれませんが、ホルス、ゲブ、オシリスとシューです。
ちょっと考えすぎでしょうか?
ただ、そうすると、ピラミッド・テキストで王が多くの神々、特にヘリオポリスの九柱神と同一視されていた部分と、表現は違っても、同じだなと、そんな気がして……。
ああ、私の個人的な妄想は置いておきましょう(笑)。
このあと、変身が神にも及ぶことを指摘されていますが、
人間があらゆる神に変身しようとすることを「程度が甚だしい」と言われています。
私は個人的に、そういう文の内容を知る書記や神官以外の人々が、実際にそれを願っていたか、その内容を理解し求めていたかというのは、ちょっと疑問だなあと思いました。
つまり、ピラミッドテキストを書き換えて、それを単に写してるだけなんじゃないかと。
実際にそれを信じ求めていたのは、王様だけだったんじゃないかとか。
まあ、本当に妄想です。妄想が多くてスミマセン。
また、一神教というものの成立背景について、このような考えがあると示されていて、
これも大変興味深く読みました。
(アスマン先生がいうには)社会に危機が起こりますと、それを乗り切るために事態を説明して責任を負うもの、つまり多神教ではなく、一なる神を求めて一貫性のある神学を作り出していこうとする。
--(中略)--
一神教と言うのは、多神教における危機の度合いを示す尺度ということになります。
旧約聖書の成立を考えて、とても納得できるなあと。
また、本当の多神教は、古王国時代までだったのかもしれないと。思ったりしました。
いや、もっと言うと、国家が統一された時点で、ある意味多神教ではないと言うか……。
多神教という概念がなんだかよく分からなくなってきましたよ。
さて、話はアクエンアテンの宗教改革からその後の「個人の信仰心」まで進んでいき、
ここまでいくと、本当に聖書(新約のほう)にある神に近い「人のため」の慈悲深さをもった神に変わってきます。
偉大なる神(アメンを筆頭に、プタハなどについても)はますます全てを内包していき、それこそ本当に一神教のようです。
アメンエムオペトの教訓など、おそらく「古代オリエント集」から抜き出したと思われる訳がありますが、
こうして解説を加えられると、気づかなかったことに気づいたりします。
たとえば、この教訓の第18章にある、
悪しきこと[も]神に属するものにして、
神の指もて封印される。(?)
神の御手に成功はなし。
されど神の前に失敗もなし。
ちょっと、抜き出し方を自分の好みに合わせて変えていますが、
とにかく、善悪に分けたのは人間で、悪と思えることも神が望んでしたことだ、と。
深いですよね。
一神教向きの話をして、
「やっぱり全てはひとつの神である」という結論につくのはなんとも納得いきませんが、
間違いなく、後代にはそういう思想があったように思います。
とにかく、はっきりしたのは……
自分が描いてるのは、決して「擬人化」イラストではない、ということで(笑)。
獣頭人身のイラストがおかしいというわけじゃなくて(壁画は確かにそうなっているし)、
自分は迷いなくこれでいこう、と。
関係ない話ですみませんです。