冥界の蛇について、とっても個人的におもってることメモ
・古代の人々が冥界にあるものを「形や境界があいまいなもの」、「未だ定まっていないもの」という感覚で、その住人を蛇として描くことがあったのではないか
・ヘルモポリスの神話でも、原初の神の半分は蛇の姿をとるし。
→そのうちカエルは多産など明るいイメージもあるが、蛇はそもそも
暗い穴や
地下にいるイメージだった感じがあるので…嫌われてるし。PTでも地に帰れみたいな言い方が見られるし、天の牛でもラーがゲブに、お前の管轄内にいる蛇どうにかしろみたいに言ってるし…。
(ただ嫌われてるのに、冥界で大神のイメージをも負うようになったのは面白いかも…。地下へのイメージが恐ろしいというより「混沌=曖昧」「生以前」、くらいのイメージに
変わったとか…)←ドゥアトのイメージの移り変わりがあったみたい。
・冥界は混沌(isft)に近く、いまだ秩序立って(mAat)いない、未だ善悪の別すら明確でないところで、だから大神も邪の象徴であるアポピスも同じ蛇で描かれるのかも。
(天の牛の書に、「神のバーは蛇として(蛇の中に?)ある」とかいう表現がある)
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例1:門の書第4時のヘレレト、多数のとぐろを巻いた大蛇について描かれた部分
→・大蛇は12の蛇を産み、坂道にいる12の女神たちはそれを「食べることで生きる」。
・女神たちの名前は「ウェヌウト(時間)」
・女神たちはラーの娘で、「その場にとどまること」を言い渡されている。
=時間を区切り、その位置に定める≒秩序づけ(マアト)
つまり、蛇が「まだ区切られてない、あいまいな“時”」をあらわし、ラーの娘である女神たちが、その「時」の原型ともいえる蛇を元手に、それぞれが「区切られた“時間”」として存在していられる。というかんじ。
例2:アムドゥアト第11時の、翼をつかんだアトゥムと蛇神「ペテリ」
→・文は「(このptri蛇が)のちに影(その背に生じたアトゥムの姿)を飲み込む」とある
=太陽神が通り過ぎるその一瞬、神の「真実の」光に照らされた時のみ現れ見られる真の姿であり、光が神と共に通り過ぎるとその姿は「飲み込まれ」た様になくなってしまう、てことなのかも…??
アムドゥアトにはこういう、後にそれ自身が飲み込む、といった表現が多いのと、これは門の書でも同じっぽいけど、ラーが通る時だけ「光に照らされ」、「息ができる」、過ぎ去ると嘆きの声が上がる、という感じなので、このラー神、光明とマアトの主であるこの大神が通り過ぎるときにそれらを「生かす」つまりマアト≒真実の姿をきちんと見せることができる、みたいなことかもしれない。???
これはかなり想像。
でもそうだとしたら、アムドゥアトにたくさん描かれる良い(大神の化身らしい)蛇たちに説明がつくのかも…?
思いついただけだけど…これをベースに確認して修正していくから。
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どうでもいいけどこういう「思想」がやっぱり一番面白いなあ。
時間をどのようにとらえていたかとか。
なんていうのかな、自分たちもう科学科学で「真実は一つ!」てやってき過ぎてるけど、科学的事実とかって意外に人の心を動かせないことがあって…
事実は真実じゃないというか、
例えば「しんだらどうなるか」みたいなこと。
科学で言えば「そんなものはない」で終るんだけど、
特にこういうことに関してはヒトってそれじゃあ納得しにくくて。
納得出来ないと生きづらいから、なにか「物語」が必要となる。観念というか…そういう。
本当は宗教がそういうものを支えてきたはずだけど、いま特に日本では宗教も弱いので、それぞれが何か見つけなくちゃいけなくて。それもたぶん、それが近づいてくれば来るほど必要になると思う。
だから、写経が流行るし、仏教を分かり易く解説している本は売れる。
その気持ちすごくわかるというか、観念的なものの豊かさがそぎ落とされてるから、どこかで必要になるなって(その必要度合いにも個人差があると思うけど)。
そういうとき、こういう、異文化の思想とか哲学に触れるのって
すごく意味のあることだと思う
けっきょく同じ宗教でも、それぞれ自分のなかに物語を作り上げてそれを支えにするということが現実的にあるというか、ある程度必要で。
自分が納得できる物語にするために、その材料は異文化のものだっていいというか、そのほうがいいこともあって。
だから生涯学習だよなあと思うんだよね
まだ今の日本の一般的な感覚では
エジプトのような古代の思想って、現代に比べると「劣った」「簡易な」ものだと感じているんじゃないかって思うけど
実際は、私らが表面的に知ってる程度の現代の宗教よりは、ずっと深い思想があって。
そんな「劣ってる」ものじゃない からこそ、
それを知ることで、新しい見方ができるという側面はあると思うわけよ。
あんまり深いことは、まだ研究途中でよく分からないと思うけど。
「そういう見方ができる」というんは面白いものだなというか
心が豊かになるよねえという気持ち。
世界が色づくというか。
ぼんやりではあっても、そういうものを感じられるから、やってて面白いんだよなあ。
「観念的なもの」であるからこそ、
はっきりは指摘できないんだけど、
そのあいまいさや複雑さから、ぼんやりでも感じ取れればいいというか、
むしろ古代エジプトって、そういうものについて「はっきりわかる」ほうがおかしいという考えがありそうだなという感じがして
そういう考え方に、現代人だからこそというか、はっとさせられるなあとか思うんですよねえ
こころのゆたかさだなあ…。みたいな。