古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●ファイユームでミイラ発見
http://drhawass.com/blog/press-release-necropolis-discovered-illahun
SCA下のエジプトのチームによって
ファイユームのIllahunのピラミッド地区の南西部で
53の岩窟墓からなる大規模墓地――中王国と新王国、そして第22王朝の墓を含む――が発見されました。
ファルーク・ホスニ文化大臣は、それらの墓はそれぞれ異なる設計であると付け加えて発表しました。
いくつかの墓には、上部の埋葬室へつながるシャフトと、そこから下部の埋葬室へとつながる二つ目のシャフトがあるのに対し、
いくつかは、たった一つのシャフトしかないといいます。
ザヒ・ハワスSCA長官は、
これらの墓の発掘は、リネンで包まれたミイラの入った人型の木製棺が収容されていることを知らせた、といいます。
ミイラの外装は、装飾も銘文もとても保存状態がいい、とのこと。
またザヒ博士は、
多くの棺に残る焦げも回復した、と付け加えました。。
それらはおそらくコプト時代に燃やされたのでしょう。
これらの棺の中で、チームは15の装飾されたマスク、お守りそして陶器のつぼを発見しました。
中部エジプトの遺物の監督で、このチームの頭であるAbdel-Rahman El-Ayedi博士は、
供物台のある中王国時代の葬祭チャペルも発見された、といいます。
予備的研究から、そのチャペルは次の期間に再利用され、おそらくローマ時代(紀元前30年から紀元後337年ほど)くらいまで利用されていたことが明らかになりました。
ローマ時代にさかのぼる泥の棺とブロンズ、および銅の宝石なども、保存状態のよいファイアンスの護符などと一緒に回復されました。
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日本の記事と少し大きな写真。
http://www.nikkei.co.jp/news/main/im20090412SSXKA032712042009.html
ほかの棺の写真。
http://www.jiji.com/jc/p?id=20090413091900-7919658&rel=y&g=soc
発表されたのは昨日みたいです。
もう暑くなってくるから掘らないのかと思ってましたよ……。
それにしても本当に保存状態がいいですよね。もしかして穴場??
しかしこっちのほうにもピラミッドあったんですね。呼び名がアラビアちっく。
4/14写真追加(ザヒ博士のサイトより)
発掘時の写真っぽいです。焦げてる棺が、上記のサイトの写真のように綺麗になったわけですね。
http://drhawass.com/photoblog/two-coffins-found-newly-discovered-necropolis-illahun
●古王国時代の「マザー・コンプレックス」
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1077147.html
最近ピラミッドなどが見つかった古王国時代の王妃セシェシェトのこと。
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一月前半、カイロの南にあるサッカラで最近見つかったピラミッドの埋葬室に入ったエジプト学の研究者は、
棺のふたを開けるのに5時間も費やしました。
中には、亜麻の帯で覆われたミイラがありました。
ほかにも、陶器の破片や金の包み(おそらくミイラの指を保護していたもの)も棺から発見されました。
銘は、墓から発見されませんでしたが、研究者はそれが第6王朝の創始者テティ王の母である可能性が高いと考えています。
王妃セシェシェト画埋葬されたピラミッドは、2008年11月に発見されました。
そのピラミッドは、エジプトで118番目に発見されたものでした。
テティの墓から見つかったことは、研究者たちに複雑な驚きをもたらしました。なぜなら、テティの墓の区域は過去150年にわたり徹底的に調査されてきたからです。
加えて、この王自身のピラミッドのそばに、衛星ピラミッドが二つ見つかっています。それはふたりの第一王妃の(ひとつは100年前に発見されたイプトの、もうひとつは1994年に見つかったクイトの)ピラミッドです。
このセシェシェト王妃自身の情報は非常に貧弱です。
処方箋などが記されたパピルスの文献に、彼女の名前があり、
薄い髪の毛を強くするための準備の要請と共に言及されます。
しかしながら、その規定に少しばかりの名誉を加えるために「薬剤師が」彼女の名前を利用しただけで、実際にこの王妃が使ったわけではないという可能性もあります。
別の記述では、彼女が王の母になったとしており、
同じエリアのいくつかのレリーフには「セシェシェト」の名前が現れます。
しかしながら、これらは、彼女が王の母であるという本質的な情報を何も与えてくれません。
学者たちは彼女が、その息子を王座に昇らせるのに重要な役割を演じたに違いない、
王室内のライバル党派との間に介在し成功を収めることを願ったに違いない、と信じています
デボラ・スウィーニー博士(テルアビブ大学の考古学部の古代のエジプト専門家)は、
研究者たちは第五王朝最後の王ウナスにごく近い血縁であったと考えている、と言った。
ウナス王には王座を継がせるべき息子がおらず、テティはその孫であったかもしれません。
彼女がいつ死んだかについてはまだはっきりしませんが、研究者たちは単に推測で、ファラオの母親が彼の治世を約20年ほど……紀元前2323~2291年にかけて生きたのではないかと考えています。
「王妃は、女神として太陽神に伴い、彼を保護し、彼に生きる強さを与えました」
スウィーニーが説明します。
「王はその側に王妃を必要としました。王妃が政治的な役割を果たした時期がありましたが、それは例外的でした。
たとえば、王が即位したときまだ子供であった場合など、そうする必要がありました。通常、そういった場合、その息子が成長するまで政治を取り仕切るのは、皇太后でした」
レイチェルShlomi-Chen博士(ヘブライ立大学の古代近東史学部?)は、
紀元前三世紀のギリシア人歴史家マネトーが、テティの陰謀の裁判についてを書いている、と指摘しました。
さらに、サッカラにあるテティのピラミッドを発掘する考古学者は、その企てを示唆する証拠を発見しました:法廷内の高官の墓にある銘文が傷つけられ、それもでたらめに傷つけたものではなく、教養人の主張のように思われるのです。
それは、共謀に与したものの墓に故意に行ったもののように見えます。
皇太后は、陰謀者に対する彼の奮闘を助けたのかもしれません。
いずれにせよ、マネトーによれば、彼女が死んだあと彼はまもなく護衛によって殺されました。
彼が生きたのは、第6王朝、紀元前2184年ごろ……出エジプトの起こったラムセス2世の時代の約千年前でした。
ザヒ・ハワス博士率いるエジプト学者は、セシェシェトのピラミッドが、古代エジプトの統治者によって妻や母親たちのために作る通常の構造に比べて、規模という点で印象的であることを強調します。
それは砂の下7メートルの場所に発見されたこのピラミッドは、もともと高さ14メートルでその正方形の基盤の幅は22メートルもありました。
テティがこの建造物の規模によって、彼の母に対する尊敬の意を示したかったということには、何の疑問もありません。
しかし、これ自体はあまり一般的ではありませんでした。
Shlomi-Chen は次のように強調します。
「古代エジプトの王家は、重要な宗教的役割をも演じており、そのメンバーは地球における神の顕現とみなされました。
王は天空と太陽の神であるホルス神であり、王妃は、最も重要なこの神の配偶者であるとともに彼を継ぐ神王の母であったのです。
王妃はまた、ホルス神の母であり、太陽神ラーの妻である、ハトホル女神であると考えられました。
ハトホル女神のシンボルのひとつは、鳴り物でした。それはギリシア語で『シストルム』、古代エジプト語では『セシェシェト』と呼ばれます」
☆
第5王朝から第6王朝への推移には、宗教と儀式においての著しい変化を伴いました。
スウィーニー博士は、第5王朝の王がサッカラではなくアブシールにピラミッドを建設したと説明します。
ピラミッド建設と一緒に彼らは、母や妻らのピラミッドに加えて、彼らのラー神への信仰を象徴する太陽神殿を建造しました。
第5王朝のうちに、ラー信仰は国教となりました。
しかし、それはこの王朝の最後の二人の王の治世の間に変化します。ウナスと彼の前任者は、ピラミッドを建造しても、太陽神殿を建造することはなく、テティ王とその家族の葬祭複合施設のうちにも、それはありませんでした。
「ウナスとテティが首都メンフィスに巨大な神殿を建造した可能性はあります。しかしそれらは何も残っていません。」
スウィーニーは示唆します。
ウナスは、さらにサッカラにも彼のピラミッドを建造しました。
それは、彼がほかの場所で過ごした後に、もっとも有名な階段ピラミッド(ジェセル王のもの)のある、古くからの埋葬地域へと戻ってきたことを示します。
Shlomi-Chenによると、ウナスのピラミッドに関係する別の革新は、壁に銘文――死者の国の王に伴することをもくろむ呪文――を刻んだという事実です。
銘文では、ウナス王ははじめ、太陽神だけでなく、死者の国の王であるオシリスとみなされました。
自然のサイクルと死者の蘇生を象徴するようになったオシリス信仰は、二世代前の貴族によって始められました。
テティは、エジプトの宗教および文化の、のちにその一部となる重大な変化を背景に王座につきました。
彼の母親の墓についての調査が進めば、彼および古代の期間の出来事がより明確になっていくでしょう。
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オシリス信仰が貴族によって始められていた、というのが気になります。
●黄金のマスク!(ツタンカーメンのとは違います)
http://en.rian.ru/science/20090408/120990444.html
画像確認中です。見つけ次第upします。
記事自体は昨日のですが、いつの話かわからないです……。どう確認すれば…?
ファイユーム・オアシスでロシアの調査隊が金のマスクに覆われたミイラを数体発見。
そのほか、歴史的価値があると思われる多くの考古学的資料を発掘しています。
ロシアのチームは、2003年よりカイロの南西80キロにあるファイユームの遺跡を調査していました。この二年間は、デル アル‐バナト?のネクロポリスで調査していました。
「これは巨大なネクロポリスです」アレキセル・クロール(ロシア科学アカデミーのエジプト学センター副主任)は言いました。
「この地域はキリスト教時代にひどく略奪されたという事実にもかかわらず、コプト時代と1960年代から1970年代にかけて、われわれは黄金のマスクをつけたミイラを発見することができた」
デル・アル-ベナトノネクロポリスはエジプトの三つの時代――古代エジプト、ローマ時代のエジプトそしてキリスト教時代のエジプト――の埋葬が確認される地域です。
伝統的なエジプトのミイラとは別に、科学者はいくつかの、いわゆるファイユーム・ミイラと呼ばれる、ローマ期のエジプトのミイラを発見しました。
それは死者のリアルな肖像画が木の破片に描かれ、ミイラにあてがわれています。
科学者は、そのネクロポリスで見つかったものの幾つかは、初期キリスト教文学に基づく既存の理論――キリスト教徒と異教徒との間に信仰についての長く苦しい不和をもたらし続けたもの――に挑戦するものだ、と加えた。
「彼らは同じ都市に住みながら、違う神に祈っていたのだろう」 とクロール氏。
ロシアの考古学者は、メンフィスの古代エジプトの首都で、アレキサンドリアの古代部分の水中発掘調査を実施しています。
●第一王朝の埋葬・つづき
http://ngm.nationalgeographic.com/ngm/0504/feature7/text2.html
1967年オコナーが、ピートリーの発見できなかった周壁を探索するためアビドスへやってきました。
ほとんど20年ほどして、shunehの影を掘っていると、彼はまったく予想外の発見をしました。
彼が発見したのは、初期王朝時代の、
14隻のボートのうちのひとつでした。
それらは、まだ知られていない王の、周壁の近くにあった、レンガで並べられたそれぞれの墓の中から発見されました。
長さ23メートルのボートは、非常に巧妙に作られ、完全に機能的な状態で埋められていました。
それらは、(葦製のものや、丸太をくりぬいて作ったものとは違って)板で作られたボートとして現存する世界最古のものと考えられました。
「ボートは、アビドスで発見された使用人に似ています」
とオコナー。
「王は、生前と同じようにこれらを使用すると考えられていました。
この世で王は、これらのボートを用い、ナイル川を航行することによって、強力な財産と軍事力を誇示することができました。
古代エジプトの王は、来世でも王となるとされたため、これらのボートは有用なツールだったのです」
その後、2002年に、アダムズはアハ王の封泥のあるワインつぼを発見し、
ついに葬祭周壁も発見されました。
周壁の層にたどり着くと、6つの周辺墓が発見されました。
3つは、成人女性の遺体で、うち1つは男性を抱え、
また別の1つは小さなピスラズリで飾られた25の象牙の腕輪をつけた幼児を抱いていました。
六つ目の墓はまだ掘り起こされていません。
どの場合を見ても、考古学的資料は人身供犠を示しています。
「墓は、まず掘られ、レンガを並べられて木材で屋根を作り、泥レンガを積まれました」
アダムズは言います。
「泥レンガの山の上に、周壁の外から広げられた石膏がかけられ、すべての墓を覆いました」
石膏の覆いは継ぎ目がありません。それは、すべてが同時に埋葬された以外にないということを示す、重要な手がかりです。
なぜなら41人もの人が――彼の墓の35人と、周壁から見つかった6人――同時に、自然に亡くなることは、まずありえないからです。
また別の可能性としては、バラバラの時間に亡くなった彼らの遺体を保管しておき、一緒に葬られたかもしれません。
しかし、オコナーとアダムズによると、これらの証拠は犠牲による死を強く示唆しているといいます。
では、どのようにして殺されたのでしょうか。
ピートリーは墓穴の中に、墓に埋める前に動いた跡を見たと信じ、埋葬時には生きていたか半分意識のあった状態だったと主張しました。
ブレンダ・ベイカー(アリゾナ州立大学の自然人類学者)は、アハの取り巻きのすべての骨を検証しましたが、外傷の跡は見つかりませんでした。
「死亡原因は未だ謎に包まれています」
と、アダムスは言います。
「私の推測では、彼らは薬物で殺されたのではないかと思います」
ナンシー・ラヴェル(アルバータ大学の自然人類学者)
は、圧死ではないかと考えます。
アハの墓から出土した頭蓋骨を研究したところ、犠牲者の歯の内部から証拠が見つかったというのです。
「絞殺される場合」彼女は説明します。「増加した血圧は、歯の内側の血液細胞を破裂させ、エナメル質の真下の部分である象牙質を汚します」
他の古代世界でよく見られたように、
古代エジプトにおいても、人身供犠が行われていたことは明らかなようです。
レナード・ウリー卿の現代イラクのウルでの1920年代および'30年代の間の発掘では、紀元前2500年にさかのぼる、メソポタミアの王および女王に関連した何百もの犠牲の墓が発見されました。
犠牲を立証する証拠は、ヌビア、中央アメリカ、また他のいくつかの古代の文化にも見られます。
エジプトでは、この冷酷な習慣は急速になくなっていったようです。
アハの付属墓は、発見され得るもっとも最古のものと考えられます。彼の後継者であるジェル王は、熱意をもってこの習慣を受け入れ、300を超える墓をすぐそばに用意し、その他269もの墓は死体仮置き場の周壁を囲みました。
しかし、第一王朝最後の王カーは、彼の墓のそばに30に満たない付属墓をもつだけで、その周壁も失われたままです。
第2王朝になると、この習慣はすっきりなくなってしまいました。
オコナーは、王のスタッフが反対したためにそれらが無くなったのではと考えます。
「これらは、エジプト人が文明化されたために無くなったと考える傾向があります。しかし私は、それは私たちの偏見だと考えます
これらの墓は、比較的高い位の人々を含んでいたので、止められた理由は倫理であるというより政治的なものかもしれません」
おそらく、死後にも王に仕えることができるのはひとつの名誉だったでしょう。しかし、待つことができるということもまた、一つの名誉だったのです(?)。
第3王朝になると、ファラオたちはサッカラの400キロメートル下流に彼らの墓を建てはじめ、そこから新しい伝統が発生します。
個別の墓と周壁は、儀式用の囲いの壁によって仕切られた、巨大なピラミッド墓を含む単一の複合体となりました。
アビドス出の王の大規模墓地は、その後700年もの間、放置されていました。
中王国時代に、オシリス信仰がエジプトの主要な力をもち始めると、来世の王であるオシリスは、エジプトでの初めの王であると考えられました。
そのため、ファラオはオシリスの墓を見つけるために、アビドスに聖職者を派遣し、第一王朝のいくつかの墓を発掘させました。
その結果、ジェル王こそがオシリスに違いないと結論付けられたのです。
こうして、アビドスはエジプトにおけるメッカへと変わりました。
その後2000年にわたってセンウセレト3世およびラムセス2世を含む数人のファラオが、オシリスのために巨大な葬祭殿を構築しました。
毎年、何十万ものエジプト人が――ファラオも農民も――オシリスの復活に関する祭典に参加するために、巡礼を行いました。この祭典は、神王を讃えて建てられた小さな一連の礼拝堂を通り過ぎるように町をあちこち巡り、そして乾燥した河床を上がって葬祭地へと向かう、凝ったパレードでクライマックスを迎えました。
オシリスの墓に到着した巡礼者たちは、彼らの先祖――千年以上前に犠牲にされた王家の職員たち――がすぐ足の下に埋められていることなど、まったく知りませんでした。
来世に個々の道でオシリスの祝福が受けられるように、崇拝者たちは果物で満たされた小さな供物の土器つぼや薫香を運びました。
今日でも、死からの目覚めによって永遠の生を得られることを願った人々による、大量の陶器の破片を見ることができます。
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発掘の過程などの細かい表現を省いています。
前回、「殉葬」と訳していた“human sacrifice”ですが、「人身供犠じんしんくぎ」というぴったりな言葉があったようなので、このページでは変更しました。
殉葬って、広辞苑に載ってなくて。っていうかどこで覚えたんだろう……?