エジプト神話について
どうして
まとまった「物語」神話が実史料の中にほぼ見られないのか、
神話のバージョンが乱立しているような状態をどう捉えるといいか、
分かり易く書かれていると思ったので、ご紹介です。
Egyptian Myth in Word and Image
Teodor Lekov
https://www.academia.edu/45143467/Egyptian_Myth_in_Word_and_Image※個人的に大事と思った部分を、以下にまとめます。
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●エジプトには神話「物語」がほとんど見られない
神話と言えば、神の行為や関係性を描いた「物語」を指すが、
古代エジプトには
「物語」としてまとまった神話がほとんど見られない。
例えば、オシリス神話と呼ばれるものが有名だが、
それは実際にオシリスが信仰されていたころから2500年も後になって、外の文化から来たもの(プルタルコス)が、
再構築した物語である。
エジプトにはずっと後代まで「神話」が見られない、というアスマンの指摘について、多くの反論が考えられる。
例えば、初期には口頭伝承が一般的であったために、存在はしたが「文書という形では」残ってなかった、ということかもしれない――等。
どちらにせよ、神話というものが、当時の世界の構造を理解するための思考様式/枠組みであっただろう古代世界において、神話のさまざまな形態の「在・不在」「重視/軽視」の問題は、重要な意味をもつだろう。
●(エジプト)神話の性質
アスマンは最近の研究で、エジプトの神話のもつ性質について、2つに分けて考えた。
①
イコン(象徴)・・・・宇宙で絶えず繰り返される、神の行為の原型(時代を超越)
②
ストーリー(物語)・・つねに過去と関連し、イコン(象徴)について描写した「語られる」もの
↓
【
象徴はいつでも物語へと発展できるし、物語はいつでも象徴へ凝縮できる】
また、「神話」という言葉には二つの側面があり、
ひとつ、よく知られてるものとして、それは(ギリシャの語源であるところの)「ことば」「言い伝え」であると言えるが、
広義では、
合理化された理論的な思考形態とは別の思考形態のことを指す。
(抽象概念が存在しない初期言語の現象学と、単語の連想的なつながりに基づく) そうした思考形態においては、
同じ質問に対して多くの答えを持つ「
多層的」なものになり、
また人々はそれらを「
同時に真実」と考えていた。
よって
神話を、
単に「神々とその行動についての物語」であると考えてしまうと、古代人と同じ視点は持てなくなってしまう。
●神話的記述における3つの時間
①
mythcal time(神話的時間)・・・神話的事実/真実の
描写。始まりと終わりがない。「ラーは太陽に住み、太陽として顕現し、見ることができない」というような。
②
cyclical time(循環的時間)・・・過去の出来事を現在のものが演じる/語ることで、未来への補償とすること(
過去の再現をうたう)。時間が循環している。
※儀礼によく見られる ③
liner time(直線的時間)・・・・過去の出来事についてを述べている。始まりと終わりがある。xpr「~が生じた」が用いられる。
エピソードや物語の形をとり、知識を知らせる。
聖なる文書はほぼヒエログリフで書かれていた、
というのは、ヒエログリフは絵の性質をも持っており、かつてはその両面(文字と絵としての性質)を用いて表現されていた。
しかし時代が下がるにつれ、絵としての性質が薄れていき、「挿絵」が独立して表れるようになり、
神話パピルスなどの挿絵が大半を占める書において、「余白」が生じるようになる。
すると、絵の性質が強かった古い時代と同じような状況になり、その余白から新たな解釈が生み出されていく。
結局のところ、古代エジプト語の表現は「物語る」ことよりも「述べる」ことのほうが向いているようだ。
●「創世神話」といわれるもの
それぞれの都市で語られたとされる「創世神話」が、
のちの時代(現代人含む)に再構築されているが、
古代エジプトには、今伝えられているような
「首尾一貫した」形の創世神話は存在しなかった。
そのような「一貫性」を与えることは、古代にプルタルコスのしたことと同じで、
それらが描写されているときに含んでいた
「多層的で深淵」な知識をすべてそぎ落とし、単純な物語にしてしまっている。 古代の人々の神話に関する感覚には、おそらく2つの層があり、
ひとつは、多くの人々が共通して持っていた、
基本的な「神話的事実」。
もうひとつは、それらをもとに、その
用いる時代や場面ごとにつくりだされた「物語」。
このような考えで見ていくと、
ある思想や神話的なエピソードが、他のものに転用されているという、「連想」的な展開(=理論的な方法とは違う思考形態)が多いことに気づかされるだろう。
●例
①
連想:カーを分け与えること
PT600を見てみると、
アトゥムが、生み出したシューとテフヌトに対し、「
後ろで腕をカーの形にする」ことで、彼らの中にカーを存在させた(与えた)という描写があるが、
カルナクのハトシェプストのオベリスクに書かれた、アメン神が女王に冠を与える図は、まさにこれと同じ状態を表している。
つまり、「
後ろで腕をカーの形にして」アメン神が女王に「カーkA」を与えたと考えられる。
・また、王に神のカーが宿ることについて、
アトゥムがはじめの神であり、
彼には父も母もなかったという設定を用いて、
王自身に人
間の父も母もいないと描写することによってそれを表現することもあった。
・さらに、王のカーは、その(神話上の)母であるヌウトが(その母)テフヌトの
胎内にあった時から供えられていたものだ、という説明で、
アトゥム→(テフヌト→ヌウト)→王 と、その
カーがアトゥム由来の素晴らしいものであると説明することも。
↓
・この考えから、
カーは体内で与えられるとされ、
メスケネト(出産レンガの女神)への祈りにも、この女神が(生まれてくる子の)カーを作るようにと唱え、そこでアトゥムやシュー、テフヌトに言及している。
②
言葉遊び: ・シューとテフヌトが誕生するとき、
シューSwが吐き出(iSS.n)され、テフヌトtfnwtが嘔吐(tf.n)された
・アトゥムが吐き出したものはkAt(カーの場所。子宮のこと)にある、
シューとテフヌト、カーとカート(カーの女性形)である。
※カーの対である女性形にはヘムウストというものがあるが、言葉遊びで強調するためにこうなっているっぽい③
創造の決まり文句xpr なにかが存在するようになるとき、wnn「存在する」とxpr「生じる」という単語が用いられるが、
創造主がその力を表す…つまり、何かを生み出すとき、決まって
「xpr」を使う。
例えば、アトゥムはひとりでこの世に存在「wn(n)」したが、シューやテフヌトはアトゥムによって存在「xpr」する。
そして、その中に創造主の力が保たれていることになる。
④
矛盾の同居 まず、アトゥムが男性性も女性性も併せ持つ存在である、という前提(神話的事実)があり、
そこから、余白を埋める形でシューとテフヌトの誕生が語られる(物語)ため、多数のバージョンが生まれる。
・カーを受け渡す方法――①
・言葉遊びによる方法――②
・マスタベーションによる方法――拳で射精し、手で交尾する
↓
これらが別々に用いられるとは限らず、ひとつの文書の中で混在することもある。(『アポピスを打倒することの書』)
これは
矛盾というよりも視点が違っていると考える。
⑤
属性による関係:シューの場合
・たとえばシューとテフヌトは「対」として考えられがちで、
地平線の二頭セットの獅子神「ルウティ」と同一視され、そのように呼ばれることもある。
(この「ルウティ」は他にも、セットにされがちな2神と同一視されることがさまざまある。イシスとネフティスとか) ・シューが
「天を支えるもの」であるとき、
その対となるのはヌウトのこともある。
特にピラミッドテキストなどで、死者を「
シューが持ち上げ(天を持ち上げる者という前提のため)、ヌウトが手を伸ばす/抱きかかえる」というように、
シューとヌウトが共に「死者が天へと旅立つのを助ける役割」として描かれる。
(②の言葉遊びもある。sSwで持ち上げるという意味)
・シューが死者を
天へと持ち上げることから、
死者の魂、バーは鳥の形で
天へ向かうことから、シューの力はバーとも同一視される。
・シューはまた「アトゥムによって生じたアクウ(有益なるもの)」とされ、
カーやバーと並んでエジプト人が考えたもう一つの聖なる力(?)「アク」ともかかわる。
この「アク」が「輝く」という意味合いも持つことから、シュー自身が天を満ちる太陽の光(太陽光線)でもあると考えられている。
※これらはまた、①の連想ともかかわっていると言える。
●まとめ
「神話的真実」は「原型」を定め、
それらを相互関係や関連性と共に記述することで、
(その場面に合わせた)一貫したエジプト思想像を作り上げることができる。が、
その場その場で組み合わされることが大事で、聖典のように「常に一貫したもの」は存在しないのである。
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かんそう
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…すみません最後の例のあたりがごちゃっとしていてちょっと適当になっちゃいましたが。
古代エジプトの「神話」と呼ばれるものには、ほぼ一貫した「物語」が存在しないことについて、こうした視点で考えるとなるほどなという感じがします。
断片的な「神話的事実」だけが定められていて、
その時に必要な形に応じてそれを組み合わせて「物語」を作り出す。
そうしたことが、それを「活性化させる」、ということなのだと思います。
連想/推論が基本で、「理屈、筋の通ったもの」ではない。っていうのは、実は人間としては自然なのではないか?ということもあって。
長年感じていた、あのプルタルコスの伝えた『イシスとオシリスの伝説』が、実際の古代エジプトで描かれている感じ(もちろん上述の通り、一貫した物語は元々なく、後代にもほぼ見られない)とだいぶ雰囲気が違うと感じる理由が、「ギリシャ神で説明されていたから」ではなくて、「一貫した、つじつまの合った物語になっていたから」(つまり、エジプトのそういうエピソードってけっこうふわっとしてて、物語としてはっきりは見えてこない)なんだというのが自分の中で腑に落ちた感じです。
前からちょっと気になってたんですが…、
たぶんプルタルコスは「物語」(起承転結)を書いているのに対し、古代エジプトの神話的なエピソードは、『ホルスとセトの物語』を読んでもそうですが、
「物語(起承転結)を描こうとはしていない」感じがすごくあるんですよね。
大事なのは話の流れではないというか。その中に入れ込まれてる要所要所が大事で、それをただつないで一応まとまりあるものにしているだけというか。
だから何度も「
(エジプト神話は)物語として読むものではない」と言っているわけで…。
ベインズがピラミッドテキスト以前に元になった文書がまず存在していただろうことについて説明しているのを読ませていただいたんですが、(読み終えてから最後のへんまとめたのでちょっと混ざってるかもです)
そのなかでも、初期は「箇条書きやリスト、メモ」のようなものが基本で、「文章」ではなかっただろう、と
なぜなら、時代的に口承のほうが権威があったと考えられるから、というの、すごくしっくりきたんですよね。
(逆に文字で全部書き表しちゃうことが、聖なるものに対して「してはならない」イメージだった、というのも、ありそうで面白いですね。もちろん変化していく感じはありますが)
そこでは、文書にあるメモ(上に書いてあるもので言う、神話的事実)をもとに、その場その場で神官等が再構築して唱えただろう、だからPTでもそのままの文書があるんじゃなく、例えば「供物リスト」というものがあって(実際非王族の墓でずいぶん前から見られる)、それに動詞を加えるなどして「活性化」し、長く繋がりのある文章を「その場に合わせて作り出した」のだ。っていう…。
その場に合わせる、ということができる、
神話的事実を(魔力として)「生かす」ことができる、っていう。
少なくとも、「物語としての」(つじつまの合う、起承転結のある)神話が書かれた文書はなかったんだろうなというか。
ホルスの目→月、太陽。傷つき再生する
とかそういうメモがあって(メモの前は口承のみだったでしょうが)
それらの箇条書き的な知識を「その場その場で組み合わせて」、その時必要な力、魔力をそこに与えようとしたのかなあ~
・・・というのが今のとこの想像です。
ある程度、その場にあった、ある意味で独創的な部分が、「許されていた」というよりも「推奨されていた」のではないかなという感じがしてきてます。知らんけど。
それが、文字を操る「賢者」たちの力の見せどころだったのかなとか。
そして、だからCTもBDも、そのまま同じ文章なことが少なくて、一部がちょっとずつ違ってることが多いのかな、みたいな。
(基本を守りつつ独創的であればあるほどカッコイイみたいな風潮があったのかもしれませんね…)
え、逆に現代っぽいな…??
一応、民話のような「短い物語」は、どこの国にもあるので、エジプトにもあったと思います。ちょっと残ってるけど、もっともちろんあって。でも文字として残すモチベーションがなかっただけかなと(識字率低いし)。
あ、長い物語(民話)も一部残っているんですね。貴族様の娯楽として人気がある程度あったのかも。
ただ神に関わることが権威を持ちすぎたというか、民話のような物語を、神と結びつけるかどうかの考え方が、また他の文化とちょっと違ったのかな、という感じが、今のところしています。
(だから、比較神話のやり方で神話素が同じだと伝えたい要素が同じと考えるの、エジプト(の神話的な説話)には合わないなあと感じてるのです)
かといって、一部結びつけずにはいられなかった部分もあった感じしますが…。地方によっても感覚違ったりしたでしょうしね…。
このあたりの説明が他にもあったら読みたいですねーー
とりあえずまた、やっぱ違うかも、と思ったらここにメモしに来ますね。