古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●スフィンクスの話
http://drhawass.com/blog/story-sphinx
4/26付けのザヒ博士のブログ記事より
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私はちょうどテレビの大スフィンクス特別番組の撮影にための三日間を終えたところです。
番組は2009年末ごろに放映されるでしょう。
私のよき友人と同僚のマーク・レーナーとライナー・シュターデルマンは、この一大記念物に対して数年かけて行ってきた重要な調査について、私と議論するために加わりました。
我々の仕事についてを伝える機会ができたことを、嬉しく思います。
撮影の話はしばらく前、Providence Pictures のプロデューサーおよび監督ゲーリー・グラスマンがNovaとヨーロッパの Arte TVの番組に大スフィンクスについてのドキュメンタリーを作りたい、と話を持ちかけたことから始まりました。
グラスマンははじめ、その他のたくさんの人(ほとんどの人がスフィンクスに対する仕事を何一つ行っていなかった)を含めたものの一部として、私にもインタビューを求めました。
私はそんなプロジェクトの一部に加えてほしくないと、なぜなら私と友人であるマークレーナーは、この驚くべき記念物に何十年もの人生をささげてきたのだと、
そして、それについてすべてが、正確に分かってもらえるように、自分たちの話をフィルムに保存してほしい、と伝えました。
最終的に、ガーリーはNovaの取締役プロデューサー・ポーラApsellと共に、スフィンクスの現実の話を伝えるべき時間とすることに合意しました。
私はガーリーに、私とマークのほかドイツの考古学者レイナー・シュターデルマンも加えるように提案しました。
大スフィンクスの建造時期がクフ王の治世に位置づけられるという理論は、スフィンクスについての学術的な討論の歴史の重要な部分を占めるからです。
撮影の三日間、私はスフィンクスについての三つの重要なプロジェクト(その一部を担っているということを私はとても誇りに感じている)を紹介しました。
物語は1980年、私がペンシルバニア大での博士号のための研究に、エジプトを去ったことから始まります。
私はそこに7年、1980年から87年までとどまりました。
この間に、その像は貧弱な復旧作業によってひどくダメージを受けていました。
作業を行っていた人々は、古代の石造部分を多く運び去り、新しい石を加え、スフィンクスの体形を変えてしまっていました。
このおろかな人々はまったく不適切なセメントを用い、石が呼吸できなくしてしまいました。
マーク・レーナーは当時カイロに住んでおり、彼はこの「復旧」と呼んでいる行為は、完全に像を破壊していると、私に手紙を送ってきていました。
不運にも、私にはどうすることもできませんでした。
しかしながら、1987年に私が家に戻ると、このプロジェクトを完全に止めさせました。
1988年の2月に、大きな石の塊がスフィンクスの肩から落ちました。それは赤旗で、それは皆に、その像が重大なダメージを受けたということを知らせました。
私は職場を出てそのダメージを見た日のことを忘れません。スフィンクスを見たとき、それが自分自身に起こされた悲しみに涙を流す、生きた岩であるように感じられました。
1988年、我々はスフィンクスの新しい保存と復旧プロジェクトを開始しました。
この仕事はほんとうに美しいものでした。我々は、この像がどのように作られたかを知らなかった人々によってそこに置かれた、新しい石材とセメントを取り去りました。
このプロジェクトの10年間、私たちは働くことでこのスフィンクスについてを研究することができ、それに関して多くを学びました。
たとえば、私たちはムカッタム層?の一部であるギザ大地の、三つの異なる層の石灰岩に刻まれたことを発見しました。
像を形作る石は地表から胸まではメンバー1および2として知られ、首から上はメンバー3の石材から、スフィンクスは彫刻されました。
はじめの二つの層の石は質が貧弱です。しかし頭は、メンバー3の強い石灰岩の層で彫刻されています。
古王国時代のエジプト人は、ライオンの体が彫られた石が非常に貧弱だということを知っていました。
そのため、彼らはより良質の大きな石材をスフィンクスの低い部分の外側に加え、このより良い素材に体の細部を表現しました。
頭と、ネメス頭巾と、ウラエウスそして付けひげは、母体となる岩から特徴をよく形作るのに充分な強さの石に彫刻されました。
新王国時代、紀元前1400年ごろに、トトメスという名の王子がスフィンクスの近くで狩りをします。
そのころ、像は首まで砂に埋もれていました。
彼が後に、スフィンクスの前足の間に置いたステラに刻ませた物語(「夢の碑文」)によると、トトメス王子はこの像の頭の影で昼寝をし、そこで、スフィンクスを埋もれさせる砂を取り除けば、彼を王にすることを約束する、という夢を見ました。
王子は像の求めるとおりにし、王トトメス4世としてエジプトの王座を手に入れたというのです。
彼が砂を取り除いている間に、トトメスは古王国時代の多くの石材が体から落ちてしまっていることに気づきました。彼はそれを元に戻し、像を支えるために他の石材を加えさせました。
彼はまた、風や北側の侵食から像を守るために、巨大なカルトゥーシュ型の日干し煉瓦の壁を築きました。
最終的に、王はカフラー王の葬祭殿から花崗岩のドアを取り除き、そこにこの物語を伝える夢の碑文を刻んだのです。
もうひとつの、スフィンクスの古代の復旧作業は、第26王朝(およそ紀元前688~525年)に行われました。この作業はスフィンクスの上のほう、南側の中央に見られます。
ローマ時代には、前足と像の後ろが小さな石のブロックで覆われました。
1998年、最終的に私たちは現代の保存および復旧プロジェクトの完成を記念するために祝賀会を開催しました。
それは交響楽団による音楽も添えられた美しいイベントでした。エジプトの大統領(ホスニ・ムバラク)さえ、この出来事を記念するために参加しました。
この日スフィンクスを見つめた私は、スフィンクスが1988年にしたように泣く代わりに、最終的には、笑っているように感じました。
我々の仕事は重要なメッセージを届けます。
「すべてのエジプトにおける記念物と同じく、スフィンクスは、エジプトだけでなく、世界中すべての人々のものである」
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続きはまた今度(汗)
しかしすみません、ほとんどが直訳です(汗)。赤旗って日本語じゃないですよね?
赤信号……かな。他にもいっぱい。読みづらいです…。
すみません、うまく訳せなくて。
●カルナク神殿の建築「屋根と照明」
デジタル・カルナク(カリフォルニア大)のガイドPDFより一部抜粋
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・屋根
エジプトの建造物は限られた方法で屋根を葺いていました。
カルナクでもっとも一般的だったのは平らな屋根で、壁と柱に支えられていました。
支えとなる素材と素材の間の距離は、その大きさと屋根の構成素材によって制限されていました。
カルナクの建造は、技術者が砂岩の平板を用いて確信的に大きい幅のスペースを取ることを学んだという、新王国時代の事実によって、利を得ていました。
たとえば、壮大な列柱室の天井ブロックは、長さ9m厚さ1.25mで、柱の間の通路6.7mにおよぶ広い幅に橋を架けています。
より大きいのは第一および第二塔門の入り口のまぐさ(横木)で、おそらく花崗岩のブロックで形作られており、戸口の幅は6.9~7.25mにおよびました。
これらはエジプト人にとって、安全に石で屋根を葺くのに、可能と考えられる最も長い距離であったようです(Amold 1991:184)。
苦心して探し、運ぶことの困難さから、十分な大きさのブロックを広いスペースの最下部(台輪)に利用することは差し止められました。
エジプト人はこの問題を、二つ以上のより薄いブロックを積み重ねることで解決しました。
列柱室では、最下部は四つまでの組み合わせたブロックから成り立っていました。それは高いものと低いものの二つのうちで整えられていました(いくつかひとつの石のブロックでできているものもありましたが)。
運搬と広間での組み立てがより簡単でしたが、複合ブロックはひとつのブロックから切り出した同じサイズのものが支えるのと同じ重みを、支えることができませんでした(Amold 1991:184)。
・照明
自然の光がカルナクの野外の庭を満たします。
ところが神殿の中は建物が覆われており、他の照明手段が不可欠でした。
建築上の解決法のひとつは、明かり取りの窓を用いることでした。
神殿の列柱室では、高く上がった中央の身廊に格子窓が並んでいます。
高い隙間(広間の床上24m)は、その空間のプライバシーや秘密を保持しながら、陽光が広間に入るようにしてくれます(Brand 2004)。
格子窓は二つのセクションからなっており、
ひとつが他の上に積み重なり、境となる窓間壁の側の溝に細く合わされることでその場所を守りました(Personal comunication, Peter Brand)。
アクミムの祭?の広間は、建物の中央の柱の間の上に格子窓に似た光の表現を含んでいます(Carlotti 2001)。
目立ちませんが、それはとてもありふれた照明と通気の問題解決法でした。
角度のついた切り込み、および四角い穴を神殿の屋根の厚板に切り開くような方法を含めて、
日光がこれらの小さな開き口を通って入ってくるようにしていました。
オペト神殿や列柱室も、この照明方法を利用していました(Clarke and Engelbach 1990:170-171; Personal communication, Peter Brand)。
***
格子窓の説明の途中がちょっと分かりにくいですが……、
映像で見たほうが分かりやすいかもしれないところです。
神殿の柱がどうしてあんなに密集してるかについては
「神殿大百科」にも載っていました。
あまり新しい情報ではないですが、しっかり確認できた感じです。
今は個人的に、ペル・アンクの情報がほしいところです……。
神殿の書記って、どうやって読み書きしていて、書物はどう保存されていたんだろう??
という疑問です。
どこかで見つけたらチェックしてみます!
●運命と宿命の神シャイ
http://www.touregypt.net/featurestories/shai.htm
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シャイShai (Shay, Schai, Schay) は、
古代エジプトの「運命の神」です。
彼は神であり、
また神性を擬人化されることもありました。(古代エジプト人はこの神性がそれぞれと「同時に」誕生すると信じていた)
新王国時代に、彼は『死者の書』に現れ、マアトの審判の間に見られます。
彼はこの世に現れる、またあの世に再生することに関する神だったのです。
「シャイ」という名前の意味はは、
古代エジプト語「シャ」・・・「任ずる」または「命令する」から来ており、
「シャイ」は「範囲・限度」また「体積・量」を表す可能性があります。
「範囲」(長さ)に関連付けられ、彼は人生(の長さ)を割り当てる神と考えられました。
この神の名の別訳では、「命ずる者」となるかもしれません。
こうして、古代エジプトの人々はこの神が、「運命」や「宿命」または人の「運」にまで関係する神だと考えたのです。
トルコの世界で言うkismetが、シャイ神の性質に最も近いかもしれません。
シャイは第18王朝あたりに始めて登場し、
その後も信仰され、アクエンアテンの治世下でさえも続いていました。
ときに「シャイト」とされ、男神ではなく女神として表されます。
彼はしばしば三人の特定の女神たちと共に表されます。
メスケネト―誕生レンガと宿命の女神、
レネヌテト―子供に真の名を与える女神、
シェプスト―カバの姿の出産の女神。
彼は男性、コブラまたは蛇、人頭の誕生レンガとしても表されますが、
葬祭パピルスで最もよく見られ、彼の女性のパートナーの近くにいます。
運命と宿命の神として、かれは幸運にも悪運にも捉えられました。
彼が個人を守ることもあれば、不幸をもたらすこともあったのです。
彼は両極の神性をもっており、
古代エジプト人は、彼が生まれた瞬間から来世の審判まで個人についているものだと考えました。
心臓の測量の場での彼の存在は、その死者の助けにも、邪魔にもなりました。
また法廷で死者自身の人生に何が起こったかを伝える公平な一員にもなりました。
しかし、メスケネトやレネヌテトは個人を来世に復活する手助けをするためにあり、
シャイもまた、死者に不当な証人となるよりむしろ、彼女たちと似たような保護の目的であったかもしれません。
古代エジプトの面白い挨拶のひとつに、以下のようなものがあります。
「シャイとレネヌテトがあなたの側にあります(ように?)」
シャイはもともと人に起こるべきことを「命じる」神性を表しました。
そしてレネヌテトは、ピラミッド・テキストに多く見られるように、豊かさや幸運などの女神であったかもしれません。
その後、この二人の神性と表す抽象的な考えについては、とくに区別されませんでした。
けれど、このシャイ神と争わなくてはならないのは、死にゆく人だけではありませんでした。
彼とレネヌテトはトトの手の中にいると信じられていました。
彼の神性を強調するために、ラムセス二世は「シャイの主とレネヌテトの作者」であると主張しました。
イペト-イスト(カルナク)にあるオペト際の神殿では、彼は「すべての神のシャイ(すべての神の運命がまたシャイの手中にあるように思える)」として言及されています。
アメンエムオペの教訓において筆者は、シャイを無視できるものはいないことをほのめかしています。
アクエンアテンは「アテンは人生を与えるシャイである」と明言することでアテンとシャイを結び付けようとしました。
、あのアクエンアテンでさえ、人々が思っているような一神教徒ではなく、(アスマンとホーナングが指摘したように)シャイを無視できなかったのです。
富を求めることに心を奪われるな
シャイを無視できるものなどいないのだから
外部の問題に思考を奪われるな
どんな人でも時間は限られているのだから
――アメンエムオペの教訓
彼はグレコ・ローマン期において重要な神の一人でした。
アレキサンドリアでは、彼を幸運を伝える蛇神「Agathodaimon(アガトダイモン)」と結び付けました。(シャイ自身について話すとき、彼はプサイスまたはプソイスと呼ばれました)
セトもまたアガトダイモンと結び付けられます。それはシャイのもつ、自然における予測不能な性質と同じように考えられたから、と同時に、シャイという言葉がセとの聖獣である豚の意味を持っていたからでしょう。
シャイは彼固有の崇拝を持っていただろうと考えられます。
というのは、第18王朝にシャイ神の第二神官の存在が知られているからです。
しかしそのほかには、この神の崇拝についてほとんど知られていません。
彼は古代エジプト人に、彼らがどれだけ生きられるかをさだめる運命の主として、
また彼らの最後の定めに直面したとき共にあるだろう神として、尊敬されました。
***
原文が「アメンエムオペ」だったのでついついそのまま書いちゃった。
今は「アメンエムオペト」というのが普通ですよね。
神々事典でも調べてみましたが、
こちらのページのほうが詳しそうです。
本ではマアト女神と同じように、概念の神格化と見ているようです。
さて、レネヌテト(レネネト)については、
PTよりあらわされる蛇の女神で、その姿は基本が蛇。
名前の意味は「養うもの」で、上述のように、もとは豊穣などを表す神だったようです。
同時に、その名前のとおり、多くの存在を「養う」乳母としても表現され、
子供を養う乳母と表現されたところから、
子供と関係ある神=子供の運命に関わる神、とされたと考えられるそうです。
かなり人気の高い女神であったとされています。
この「運命の神」としての性質、特にシャイとの関係は、後代ほど強調されていくみたいです。
ちなみに息子は「ネプリ」、穀物神です。
以上、神々事典より要約。
レネヌテト、意外に重要な女神様でした……。
ハピより偉い、みたいに書いてました。マジですか??
ハピが彼女に供物をささげている図があると。
●デジタル・カルナク神殿(カリフォルニア大学)
http://dlib.etc.ucla.edu/projects/Karnak/experience/IntroductionToTheTempleOfKarnak
いや、これはすごいです……。
カルナク神殿の「再現」をCGで。そのクオリティもすごいのですが、情報量が半端じゃないです。
絵ではなく、すべて動画で見ることができます。
・塔門について
・神殿の変遷
・増改築(歴史の流れに沿って・増築者)
・日常儀礼(神殿の列柱室奥に刻まれたその様子・壁画の紹介)
・祭礼(オペト歳、美しき谷の祭り(だったかな)、ウェヘム・アンク(生命の繰り返し?)/その壁画と、土地の巡り方)
・建築(レイアウト、施設、柱の様式、装飾等)
・構造(屋根とか、光の入れ方、オベリスクの建て方とか、使用石材とその産地)
そのほか、
現代の様子を動画で見ることもできます。
動画はほとんどが映像でできているので、英語分からなくてもすごく楽しめます。
詳しい情報を知りたい場合、PDFファイルを開いて見ることができます。
すごくいろいろ知りたいのですが、
興味があるところだけを、またここでピックアップしようと思います。
さっき、ざっと気になるところだけ見ました。全部は見れそうにない!
せっかくなので、ゆっくり楽しみます!
「神殿大百科」も素晴らしいけれど、こう、動画で体験できるって、本では得られない感覚ですよね。
●シナイ半島で新王国時代の神殿を発見
http://drhawass.com/blog/press-release-new-kingdom-temple-discovered-sinai
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SCAの調査団が巨大な新王国時代の神殿をシナイのテル・ヘブア地域で発見しました。
神殿内にはトトメス二世からラムセス二世の治世にかけての銘文が発見されています。
この発見はシナイにおいて史上最も重要な発見のひとつである、とザヒ博士は評しました。
神殿はこの地域でもっとも大きなもので、
エジプト東部の国境として戦略的に重要な位置であったために、古代において極度に強化されていました。
神殿は80×70平方メートルほどの広さで、日干しレンガで造られており、4メートルの厚さの壁で覆われています。
それは、ホルス、ハトホル、テフヌト、モンチュおよびレネヌテトなどを含む神々のイメージで飾られ、合計34本の柱をもつ四つの長方形のホールから成ります。
そこにはさらにトトメス二世およびラムセス二世のイメージもあります。
ザヒ博士は、それがエジプト東部国境地帯のための重要な聖地だったことを、神殿に関する以前のの研究が示す、と言いました。
その壁は鮮やかに彩られ、多くの礼拝堂と共に三つの石灰石の清めの器を収納していました。
モハメドAbdel Maqsoud博士(この地域の発掘責任者)は、
この神殿の東および西へ、それぞれ13の部屋を持った2グループの倉庫を発見したと言います。
これらの倉庫はおそらくセティ一世、ラムセス二世とセティ二世の治世のものだと考えられています。
その中から、発掘チームは幾千もの銘文と、セティ一世、ラムセス二世そしてセティ二世の印章を発見しました。
ひとつの、特に重要な例は、
セト神(後援者であるヒクソスの州都アヴァリスの神)の前にラムセス一世が描かれたものです。
アヴァリスは、今日テル・エル=ダブアとして知られている、テル・ハブアから50メートルほどの距離にあるナイルデルタの東側の地域です。
メモ:報道では、4つの神殿が新たに発見された、としているところがありますが、それは正しくありません。
4つの神殿が近くの地域で知られていますが、新たに発見されたのは一つだけです。
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はっきり見えませんが、上記のページの右下にある写真は、モンチュ神ですか?
太陽がでかいけど、上に羽があるみたい……?
あっ、あるサイトに「ラー・ホルアクティー」ってあったよ……(汗)。
同じサイトにもう1枚。
「供物をささげるラムセス二世」とのこと。
一部しか見えませんが、パンをささげている相手はゲブ神でしょうか??
いや、頭の上に「ゲブ」の字があるからそう思っただけです……。
ゲブ神もいる、とあったので、そうかも。
あと、ラーホルアクティと、ハトホルもいるそうですよ。
ラーの画像はあれ、ということで、他の神様も見たい!!
現場はエジプトとパレスチナを結ぶ古代の軍事道路「ホルスロード」沿いにあり、古代エジプトの東方遠征の拠点だったとみられている、とか、
近くにみはり台もあった、とか、日本語で見ました。
とりあえず、発見されたのは一つで、今までで最大だということです。シナイでは。