古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●テティ王のピラミッド・テキスト(画像)
http://drhawass.com/photoblog/pyramid-texts-pyramid-teti
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サッカラのテティ王(第6王朝)のピラミッドにあるこの短い水平の通路は、王の埋葬室に通じています。
ピラミッド・テキストは通路の両側面に見られ、天井には星を見ることができます。部屋の最後には、王の石棺があります。
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ザヒ博士のサイトより。
どうして急にPTなのか分かりませんが、興奮して記事にしちゃいました。
ウナス王のものはよく見るし、時々ペピ王のものも(字とかなら)見るけれど、テティ王となると、あまり見たような覚えがなく……。
特に、こういう「部屋全体」を写したような写真は、ウナスのものが一番多いような気がします……。
狭そうだけど……絵もなく字ばっかりというのは、また圧巻ですよね……。
●マーク・レーナー・・・大ピラミッド建設労働者の生活を暴いた人物
http://www.columbusdispatch.com/live/content/science/stories/2009/06/28/sci_Egyptologist.ART_ART_06-28-09_G3_MNE9H7A.html?sid=101
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4500年前、ギザ大地に巨大なピラミッドを築いた古代エジプト人たちは、ずっしりしたパンを食べ、肉片や保存された魚を自由に選べた。
彼らは兵舎のようなところで眠り、「メンカウラーの酔っ払い」などと言う名前のついた作業集団に所属していた。
考古学者マーク・レーナーは、この失われた町から掘り起こすのに過去20年間を費やした結果、それらの詳細を知ることになりました。
ピラミッドとスフィンクスという、多くの人がエジプト考古学者と結び付けて考えるアイコンが近くにあります。しかしレーナーはそれを、ワシントンD.C.にあるナショナル・モールを掘り起こせばいつか誰かが見つけるだろう物であると例えます。
「ジョージ・ワシントンの時代の食事や経済や経済危機、そして300年後にそれらがどれほど変わったかを知るのに、D.C.の周囲を掘らずにどうするんだい?」と彼は尋ねます。
彼のチームの財宝――製粉機、動物の骨そして封泥――は、パン焼き施設、兵舎および書記の家で見つかりました。
レーナーと彼の同僚Ana Tavaresは、5月30日からCOSI(http://www.cosi.org/)で開かれている「失われたエジプト」の展覧品のためのアドバイザーでした。この話は、彼らがコロンブスにいたとき、先月に、聞いたものです。
彼らの仕事は、動物の骨や、バッグや箱そして重要書類などに書記が用いた封泥のプリントをマッピングする区分の展示において極度に表現されます。
彼らは古王国時代のエジプトの日々の生活に注目し、砂の下に消え去った文化へのより緻密な視点を捜し求めます。
「COSIの展示会で用いたタイトル『失われたエジプト』は、エジプトで失われている部分、そのすべての人々と個人たちが戻されてきているのだということを現しています」レーナーはいいました。
「我々は都市全体、および人々がどのように生きていたかを再建しようとしています。したがって、どんなものでも調べます。陶器の構造、封泥のしかた、我々はそれらすべてを調べます。」
はじめ、彼は都市を見つけなければなりませんでした。
エジプト学者は、ピラミッド建造に携わった何万もの人々の家がどこかにあるはずだということを知っていました。
レーナーは大スフィンクスを手でひとブロックずつマッピング調査するのに三年費やしました。それから彼は関心をギザ台地――スフィンクスと、第4王朝の3つの重要なピラミッドが建つ――に移しました。
彼はノースダコタで育ち、アトランティスからの難民がスフィンクスの下に彼らの記録の通路を埋めたという新世代のアイデアを持つ、カイロ・アメリカン大学の大学生として、1970年代の初めにエジプトに渡りました。しかし数年費やした後、こんにち「岩盤現実」と呼ばれるものを熟知した彼は、その展望を変えました。
「それは実際に、どこに都市があったのか知ろうとし、を景観がどんな物語を伝えてくれるかと景観を調査するような、一つの科学へ転じました。
“ここに採石場だ、ここに傾斜路がある、ここが港のあった場所だ、だから都市はこの外にある”というように」シカゴ大学で一年に三ヶ月ほど先生をしてもいるレーナー氏は言いました。
「私たちのプロジェクトのきちんとしているところは、1988年にそこに出向くことができ、その後20年間も仮説をそこでテストすることができたということです。これは科学にとって最上のことでした。そしてなにをあてましたか? そこには当然あったのです」
そのときから、都市の三つのエリアが出現した、と、古代エジプト共同調査隊のフィールド・アシスタント・ディレクターであるタヴァレス(レーナーが失われた都市地区を調査するために設立した考古学グループへの、基金の提供者)は言いました。
「道と周壁で細く調整された兵舎があります」彼女は言います。「またそこで見つかった家や人工品の形は、基本的に労働者のためのものであり、若い男のものであることを告げており、おそらく“回転する労働力”という点で女性や子供はいなかったと考えられます」
兵舎の近くで、より小さな家の、捻じ曲がった道を備えた、より非組織的だった生活形態の村が発展しており、おそらくもっと女性や子供がいたでしょう、とタヴァレスは言います。そこに住んだ人々は家族規模で供給していたようです、と彼女は言いました。
またその近くに、労働者たちが住んでいた町がありました。
「そこで見つかった文書の封から、管理に関する多くの証拠がみられます」彼女は言います。「そこには石膏で塗られた壁を美しく装飾したとても大きな家がありましたが、そこで見つかったものはかなり異なっていました。石の容器や、より繊細な発見物です」
チームの、封に関する専門家ジョン・ノランは、バッグ・箱・つぼ・ドアに書記が残した封泥の捺印あとを、丹念に集めた、トレーナーは言いました。
「封泥にある肩書きは、国で最も高位な書記の肩書きのいくつかに当てはまります」レーナーは言います。「たとえば、“王の筆記具の監督者”とか“王家の指導者である書記たちの監督者”といった、王族や貴族の教育者のものを見ることができます」
労働者は、クフ、カフラー、メンカウラーのピラミッドを建てるための三つの世代が終わると共にそこを去りました。
それらの遺跡から、兵舎の区域が足首かウエストの高さにまで崩れ、砂漠の砂が吹き付け、砂の下20フィートほどに隠されたことが分かるでしょう。
次の段階の「失われた都市」の調査は研究室内で行われるでしょう、とタヴァレスは言います。
マッピングと発掘をしてきた20年間の後に、我々の行う必要のあることは、情報を解釈し、統合し、そして公表することです」彼女は言いました。
レーナーは、自分は発掘作業を続けて、研究所の仕事はアヴァレスに残したいと言いました。しかし彼は、実際的な視野を得るためにむき出しにしたいくつかの建物を再建することにも興味があります。
●ホルエムヘブの墓が再公開
http://luxor-news.blogspot.com/2009/06/report-back-on-valley-of-kings-and-kv57.html
公開停止していた(らしい)王家の谷にあるホルエムヘブ王墓(KV57)が再公開されているようです。
(2009.6.27の記事です)
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さて、私は早朝にそこへ向いました。実際、谷には一番はじめに到着しました。私はまっすぐホルエムヘブの王墓に、またそこが閉まってしまう前にと急いで向いました。外側からは、そこが開いているというような表示が見られませんでしたが、あとで多くのガイドが客に告げているのに気づきました。
墓はすばらしいものでした。わざわざテーベのマッピングプロジェクト(?)から説明したりしませんが、私はその内部を15分間楽しみ、審判のシーンは最高でした。女神のドレスのパターンもゴージャスでした。
墓はかなり大きく、多くの階段と傾斜路があります。
とても暑く、また高湿で、ひびのモニターと、湿度を測定するモニターのようなものを見ました。
谷は最近大きく変わってきています。(ブログ上の)写真はメルエンプタハの墓への枯れ谷を撮っています。記念物から排水するため古代に作られた溝がはっきりと見えます。
また、KV55のとなりに調査作業場が移動してきていますから、当然このあたりでこれから発掘が行われるのでしょう。
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ホルエムヘブの墓、調査中だったんですね。湿気がすごいようで(ひび割れも警戒してるんですね)、
コメントなどを見ていると、あと一週間開いてるかどうか……と言う事らしいです(いつまで開いているかは分からないそうです)。
今観光に行けたらラッキーですよね……。
ときどきホルエムヘブの墓の壁画の画像を資料に使われている本を見ますが、とても綺麗ですものね! バックが青いのがすごく印象的です。一部書きかけなんですよね。
これからされる作業というのは、どういうものなのでしょうね。
●第26王朝の軍事都市を発見
http://drhawass.com/blog/press-release-fortified-garrison-town-discovered-northeastern-delta
西カンタラの都市の約15キロ北東、エル・マンザラ湖とスエズ運河の間にあるテル・ダフネ地域で、第26王朝(BC664-625)に遡る軍事都市を発見したそうです。
(記事は2009.7.1のもの)
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デルタの北東はエジプトでも特別な位置を占めました。
東方との貿易で主要な中心地となり、古代の軍事および通商路であった「ホルスの道」(エジプトと東方を結ぶ道)のあった場所でした。
その地域は、後の王たち(BC747-525)、特に第26王朝の王たちによって、侵入者から東部境界を守るために使用されました。
ザヒ・ハワスSCA長官は、
19王朝(BC1279-1212)の王、ラムセス二世が、
エジプトの敵を撃退するため、要塞を作るか都を補強する目的で、
テル・ダフネのこの地を選んだのだと述べました。
新たに発見された要塞は、王プサメティコス一世(BC664-610)がここに更なる補強を施したことが示されています。
モハメドAbdel Maksoud博士(下エジプト中央部の遺物の管理者で、このチームの監督)は、
新しく発見された要塞はこの地域に380×625mにわたって広がっており、周壁の幅は13mにも及んだと言います。これはデルタの東方で見つかった要塞としては最大の規模であると考えられます。
チームは3つのホールを備えた巨大な泥レンガ造りの神殿も発見しています。また、神殿の西方と東方に8つの部屋を備えた連なった?(magazines)倉庫を見つけています。
さらに、チームは砂の約3メートル下に、古代の構造の内部の雨水のための陶器で作られたトンネルで構成された排水溝路(路の終わりに陶器の器が垂直に埋められている)をも発見しました。
モハメドAbdel Maksoud博士は、
さらに大量の陶器の器と、現地のものと輸入ものの蓋を発見したと述べました。
これらは、当時エジプトと近東そしてギリシアで大規模な貿易活動があったことを表しています。
デモティックを刻んだ白のプレート、赤や黒のアンフォーラで飾られたもの、穀物を挽くために使われた石のグループ、ウジャトの形をした護符やアラバスター製のコホル(アイライン用の化粧道具)つぼの一部なども発見されています。多くの銅製の矢じりもまた見つかっており、この地域の軍事的性質を明らかにしています。
チームは6人の考古学者、建築製図士(?)、建築監督者および地形学者からなります。この地域での作業は2010年にも続けられるでしょう。
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神殿の綺麗な壁画が見つかったところですよね。
こうしてみると、前の訳とかおかしいかも……。あ、このへん神殿がいくつかあるんでしょうか? そのうちの一つなのかな。
あああ、図が見たい。
関連記事:「シナイ半島で新王国時代の神殿発見」
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/62/