古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●KV64の発見
http://drhawass.com/blog/video-kv64-be-discovered-all-egyptian-team
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王家の谷を訪れたはじめの二度は、忘れることができません。
私が初めてそこに訪れたのは、17のころでした。グレコ・ローマン期のアレキサンドリアの芸術部門の学生でした。学校が王家の谷への見学旅行を組織したのです。ほとんどの学生は忙しくその辺を走り回っているか冗談を言っているばかりでしたが、私は、多くの秘密を常に知らせているこの谷に魅了されました。その頃、私はここでずっと発掘するようになろうとは思ってもみませんでした。
将来も分からず、私はこの谷にひきつけられており、そう感じたのは、今でさえ説明がつきません。当時、1922年の11月4日、ツタンカーメンの墓がみつかるという最後の発見がありました。
1965年に私が谷へ訪れたとき、62の墓が知られており、そのうち26が王に属していて、残りは王族でない個人のものでした。王は誰でも谷に埋葬するように命ずることができたので、これはありえることでした。ツタンカーメン王の墓の秘密は驚くべきものでした。というのは、他のアメンヘテプ2世やユヤとトゥユのものが半ば損傷を免れた程度で見つかっているのに対し、その墓は無傷だったからです。
王家の谷では、ツタンカーメン王の墓以来、唯一つの新しい発見を――84年後に、明らかにしました。オットー・シャデンは少年王の墓の正面に63号墓を発見したのです。
しかしながら、我々の発掘は、以前谷で行われることのなかった初めてのエジプト人による調査旅行であったというだけでなく、最も科学的に重要なものの一つでした。我々が調査を始めたとき、我々は始めから、この地が有望であると感じることができたのです。
我々は山を掘削し、地の中に階段がつづきその先を広間にしたものを発見しました。それは墓の入り口のようで、正確には63号墓の入り口によく似ていました。我々は付近の多くの銘を記録しましたが、それらのうちいくつかは既に知られており、幾つかは初めて見つかったものでした。うちひとつに、ウセルハトという男が父である大臣アメンエムハトのために墓を建てた、と伝えているものがありました。
崖の中での作業はとても面白いものでした。我々は巨大なブロックを見つけ、それを動かすのにかなりの時間を要しました。その後、人工の壁(その向こうに下降階段付のシャフトがある)を見つけました。そこはまた別の墓の入り口であるようでした。また、多くの労働者の帽子をも見つけました(知っての通り、労働者は王の墓を掘ったり装飾したりするため、かつて谷に住んでいました)。一つの区画で、円形の石灰石の台(中央に穴の開いたもので、労働者の飲食物を入れていた)を見つけました。
たとえこれら二つの入り口うちの一つもラムセス8世の墓に通じていなかったとしても、多くの偉大な王族――18王朝の王妃たちに加えてトトメス2世やネフェルティティなどを含む――がこの谷に埋葬されているらしいことを、忘れないでください。しかし、彼らの墓は未だみつかっていません。
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KV63のこと。
NHKスペシャルのやつはあんな感じでしたが、
やっぱり公式サイトに書いてある、日本のテレビでの放送予定は、
9月?いや10月?にあるらしいです。こうあります↓
Fall 2009
KV-63 (*tentative title as currently in production). One of a four-part series scheduled to air in Japan in September with possible broadcast in the USA in October NHK Television (Japan Broadcasting Corporation).
今までのことがあるから、あまり期待しすぎちゃダメなのかな。
でも、見たいです。得るものはあるはず。
……でも、「四つのパートのうちの一つ」というのは、NHKスペシャルでやったのと同じ構成……やっぱりあれのことだったんでしょうか……。あああ……秋の楽しみが(涙)。
それはおいといて、この記事は
KV64なんですよね?(タイトルを見ると)
ザヒ博士にしてはすごく控えめなのですが……。
発見されたのは、一年以上前ですよね?
もう見つかっているけど、期待できるか分からないなあ、ということでしょうか。今どの辺までいってるんでしょう。言い訳っぽいので、もう中はだいたい見えてきたのかもしれませんね。しかも、残念な方向に(涙)。そうでなければ、金ぴかの棺のある未盗掘王墓を発見したいけど、銘からすれば一般人の墓かも、ということかもしれません。それでも、もし損傷が少なければすごいと思いますが……。
ビデオはやっぱり、聞き取れないので(涙)……。すみません。
●コリンズの洞穴論争
http://drhawass.com/blog/collins-cave-controversy
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ギザ台地地下の、いわゆる「洞穴システム」発見について、ネット上でストーリーが表面化しているようなので、その記録を正したいと思います。
この物語は、
考古学的背景を持たない人々が、どのようにしてネットやメディアを使って見出しを報じるかを示しています。
不幸なことに、主題の歴史的知識をもたずに主張すると、民衆に誤解を与えてしまうでしょう。たとえば、ギザのピラミッドやスフィンクスについての歴史を知らない人は、あれはきっと失われた文明のものなのに、エジプトの考古学者は反証するのだ、と考えるでしょう。
私が、ギザでの新しい発見に関するこれらのストーリーを見たとき、これは誤解であると知りました。記事には、トンネルと洞穴の巨大なシステムが見つかっているとありました。しかしながら、この地域には地下洞穴複合体などないのです。
ギザには、あらゆる時期につくられた多くのモニュメント(多すぎて一般の訪問者は気づかず通り過ぎている)についての活動の証拠が、何千年分もあります。
この地域の詳細を知るのに、エジプト学者は何年も研究を重ね、一般的にはあまり知られていないエリアについてはまだ研究が続いています。ギザは、エジプトで最もよく研究されている地域ひとつです。そこは自分を含む多くの学者によって研究されており、多くの学者によって写像され、記録されました。
これから引き続き行われる科学的調査で、新しい発見があるかもしれませんが、最近の研究については、この地域のすべてを知っています。
研究者たちはエジプトのそれぞれの地域について参考にできるような多くの資料と、そこからの発見物を持っています。たとえば、一般にポーターとモスとして知られる本「Porter and Moss(ポーターアンドモス):A Topographical Bibliography of Ancient Egyptian Hieroglyphic Texts, Reliefs and Paintings」(エジプトのヒエログリフのテキストやレリーフ、壁画についての地形上の文献)はエジプト全地域の情報を含み、ギザについてももちろん、そこで何が見つかっているかを知らせます。
この文献を参考にすれば、この「洞穴」がヘンリー・ソルトによって1816~1817年のうちに見つけられ、開かれた掘り出し墓であると分かるでしょう。
ソルトは考古学者ではなく、エジプトの英国領事で、ジョバンニ・Cavigliaと共にこの墓を発見しました。彼らがそれを調査したとき、彼らはそれをカタコンベと呼びました。というのは、それがいくつかのトンネルと、深く掘り下げられた通路を含んでいたからです。この洞穴に入った人は皆、多数のトンネル(35m以上あるらしい)のために迷路の道であるように感じるでしょう。
ヘンリー・ソルトとCavigliaは、それがグレコ・ローマン期から知られるカタコンベに構造が似ていることに気づきました。
数年後、ハワード・ヴァイスとジョンShae Perringが掘り出し墓を調査しに来ました。私の職場であるSCAでも、つい最近、再調査したところです。
アンドリュー・コリンズとナイジェル・スキナー=シンプソンは、エジプトにこの墓を再発見するためにやってきました。そこはほぼ2世紀も前に発見され、多くの学者によって調査し報告されてきたというのに、彼らはその墓を完全に調査する第一人者になろうと考えたのです。
この切り出し墓は、私の西の発掘場から約150mのところにあり、北から南へとのび、北側に入り口があります。約3.2mの高さで、入り口は南のフロント・ホールへと、さかさまのT字型にのびています。そこから、二つのホールが見えていて、ひとつは右に、もうひとつは左にあります。
左側は、岩を掘って造られた大きな部屋に続き、約6mの長さです。天井にラテン語の銘が残っており、この墓がその時期を通して開かれていたことを示します。
右側には、岩をくりぬいて作った別の、四角い広間があります。そこから下に、砂に満たされた通路がのび、陶器の破片や骨、他の人工物を含みます。
主要な通路から岩を掘って作った別の通路がりますが、これらは短いトンネルです。
壁に塗られた石膏プラスターと現代の破片の発見により、この墓には最近入られていたことが明らかに示されています。また、部屋のひとつから最近の照明が発見されています。さらに、この墓は1910年代から1920年代にかけてジョージ・ライスナーの発掘中の貯蔵庫として使用されています。
公式な報告に基づく私の学術的主張は、
これがグレコ・ローマン期に掘られたカタコンベで、聖獣などを埋葬したものらしいということです。それはサッカラとトゥナ・エル・ガベルにあるカタコンベと似ています。
このような、聖獣の埋葬はエジプト学の文献でもよく知られており、それは神へ捧げる目的で作られたもので、ネットを巡っているような、失われた文明や他の非科学的なものとは関係ありません。
ギザにある墓についてもっと学びたいと思った人は、学術的な資料……たとえば私自身などの学者が出版している本を参考にし、サポートされていないネットのアカウントなどに依存しないでほしいと思います。
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まえにあった「ギザ大地の下に巨大ネクロポリス」みたいなやつについてですね。
詳しく説明してくださったので、なんとなく分かったような気がします……。
ポーターとモスってなんだろう……訳を間違っているかも……。
と思っていたら、以下のようなコメントを頂ました。
西村先生、ありがとうございました!
コリンズの洞穴論争の記事について、
「著者がBertha Porter and Rosalind L. B. Mossなので、ポーターアンドモスと
呼ばれています。全8巻のものすごい参考図書です。エジプト学徒必携の書の一つ
です。詳しくは、下記のURLをご覧下さい。
http://www.griffith.ox.ac.uk/gri/3.html
http://ejibon.blogspot.com/2009/03/porter-and-moss-pm-8-vols.html」
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関連記事
・ギザ台地の地下洞窟?
http://siryoumemo.blog.shinobi.jp/Entry/118/
●ピラミッドは8月23日に建てられた?
http://www.gulfnews.com/region/Egypt/10346772.html
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はじめの一撃は、ギザ知事サイード・アブデュル・アジーズからで、
先月の初め、ピラミッドで有名なこの都市はギザの日を8月23日に祝うだろうと発表しました。
彼は、
この決定が考古学者および天文学者のパネル研究によって完全に得られた結果(大ピラミッドの建設は8月23日に始まったと結論を下した)に基づいたものであると説明しました。
「その研究は不正確です」エジプト考古最高評議の長官、ハワス氏は言いました。「古代の歴史に、いつ大ピラミッドが建てられたかを明らかにするものはありません。大ピラミッドがナイルの氾濫時、仕事がないときにに建てられたとする確信は、完全に誤っています」
「考古学的な発見は、ピラミッドの建造が年間にかけて行われたことを示しました。よって、研究は考古学的資料にしっかりと基づいていないのです。また、古代エジプトの歴史の記録についていえば、SCA(エジプト考古最高評議)だけがこれを施行する権限をもっています」
古代世界の七不思議のリストでトップに上げられる大ピラミッドは、クフ王のピラミッドとしても知られ、カイロの西にあるギザの地で13エーカーものエリアを覆っています。その高さは、元は146mで、その天辺の浸食の結果137mとなっています。この建造者であるクフ(紀元前2589~2566)は、エジプト学者によれば、第4王朝の二代目の統治者だということです。
いつ大ピラミッドの建造が始まったか、明白な証拠がないと知って、
カイロ大学の考古学の教授アブドゥール・ヘリム・ノア・アル・ディーン氏(論争の的になっている研究に参加した)は、彼は同僚と科学的な
アプローチを適応したと主張します。
「われわれは考古学的、そして天文学的な手がかりに因っています」
カイロ大学の考古学の教授アル・ディーン氏は言いました。「たとえば、大ピラミッドのある部屋の内部では、『クフ王の治世16年、氾濫季第一月』と読める、この記念物を建造した人たちによる記録があるのです。それは、増水が――石のブロックを運ぶ船を助け、この地に漕ぎ込むために――このエリアを覆い隠す必要があったことを示します」と彼は説明しました。
「われわれは、いくつか天文学的な計算結果をも導き出しました。それによって、ピラミッドは8月の22~24日の間に建てられたという結論を下したのです。われわれはだいたいの日にちとして、23日を選びました」
論争は、文化大臣であるファルーク・ホスニ氏を介在させ、
ギザ知事に、「徹底的な調査のためより多くの時間を残す」ため、将来のギザの日の祝賀をすべてキャンセルするようにという要求を促しました。
知事は引き下がりました。
独立した新聞「アル・ユム・アル・サベ」は今週、こう推測しました。
ホスニ氏はUNESCO長官のポストを争っているため、イスラエル人(彼らは先祖がギザのピラミッドを建築したと主張している)を怒らせたくなかったのだろう、と。
「彼(ホスニ氏)は、きたるUNESCOの選出に当たり、ユダヤ人の票を必要としています」その新聞はホスニの文化省に付属する SCAの匿名の先任上位職員の言葉を引用し報告しました。
リポートは、論争のタイミングがホスニにとって折が悪かったのだろうと付け加えました。
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増水時にやっていたと思ってたんですが、
年間通してやってたんですか……?
ピラミッド建築にかかった年数などから算出してるのかもしれないですね……。
記述って言うのは、やっぱり「重量軽減の間」とか言われるあそこの石のどこかにでもあったのでしょうか。
といっても、どれだけ時間がかかったかは、どう作られたかから計算されるでしょうし、そっちもはっきりしていない以上、まだ分からないかも……?
でも、
ギザの知事が、その地の目玉を売りにできない(売りって……)っていうのは、なんだかなあと思ったりです。
お祝いって、何するんでしょうね。
観光客にはよかったかもです。……いや分かりませんが。
●早期エジプト文明とヨルダンの関係
http://www.jpost.com/servlet/Satellite?cid=1251145168042&pagename=JPost%2FJPArticle%2FShowFull
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近年では、エジプトとイラクの関係は寒々しいものですが、
紀元前3000年ごろ、青銅器時代初期には、この2つの土地の結びつきはとても活気に満ちていました。
すくなくとも、テル・アビブ大学とユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの考古学者――ヨルダン川がキナレット湖に注ぐ地点で、稀な4cmの石の破片を見つけた――はそう言います。
この、古いエジプトのサインをもった切り出しの飾り石は、テル・ベト・イエラ(キルベト・エル=ケラク)での発掘第二季の目玉でした。遺跡はエジプトをより広大な古代近東の世界と繋げる古代のハイウェイに沿って位置します。
発掘はベイト・イエラ国立公園の中で行われ、TAUのラファエル・グリーンバーグ率いるチームと、英国のデービッド・ウェングロウ率るチームとの共同作業によって、先週完成しました。
エジプトとベト・イエラでの初期の発見物は、この地域(そのころ最も大きなものの一つがヨルダン渓谷にありました)とエジプトの宮廷との間に直接の相互作用があったことを示します。
新しい発見は、これらの接触が想像よりはるかに大きな土地のの重要性があったことを示唆します。
考古学者は、
腕と王笏を握る手、そしてアンクの初期のサインが描かれた破片は、
エジプトの遺跡の外で今まで発見されたものの中で、最も早期の人工物であると述べました。
これは、紀元前3000年ごろの、古代エジプトの第一王朝時代にさかのぼります。
この種の発見は、エジプト国内においてでさえ稀で、
サインは、エジプトの王家の起源にさかのぼる、王家の化粧パレットや他のモニュメントに匹敵するほど高い品質を備えている、と彼らは言います。
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上の1/3だけがエジプト関連で、
あとは知識も足りず訳が難しかったので省きました。
画像が見たいですよね。
アンクのサインと一緒にあったヒエログリフ、読んでいると「ジェセル(D45)」なんじゃないかなとか想像しちゃいました。
それしか思いつかなかっただけです……。
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前回の記事で、
ムトネジェメトについて、ありがとうございました!!
Aa13のm、あの、折りたたんだ布みたいな形のやつだったのですね!
他の字も、確認することができました。本当にありがとうございました!
9/4追記***
画像ありました!(ありがとうございます!)
http://ferrelljenkins.wordpress.com/2009/09/02/egyptian-and-anatolian-contacts-with-galilee/
サインってヒエログリフ(文字)かと思っていました……。違ってますね。
ウアス杖と、古い形のアンクです。
●王妃ムトネジェメト
http://weekly.ahram.org.eg/2009/960/he2.htm
byザヒ・ハワス
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王妃ムトネジェメトは、ネフェルティティやネフェルタリのような有名な王妃ではありません。しかし彼女はホルエムヘブという高官――のちに王となる――と結婚しました。
ホルエムヘブは、アクエンアテン、ツタンカーメンそしてアイの治世にかけて軍隊の長でした。アイの死後、ホルエムヘブは王座に上りました。
彼の上昇の前に、彼は自身のための貴族の墓をサッカラに建造していました。そして上昇後に、その墓は最早そぐわなくなったので、彼はより彼の位にふさわしい墓を王家の谷にもったのです。
彼のサッカラにある始めの墓は、その時から、多くの損害を受け、ブロックのいくつかは不法に国外に持ち出されました。考古学者ジェフリー・マーティンは墓の再発掘と復旧を担当し、いくつか非常に印象的な仕事を行いました。
私は現在、ホルエムヘブの王妃ムトネジェメトの骨を発見しようと試みています。というのは、ツタンカーメン王の家族に対する我々のDNA調査に、彼女のものを含めるためです。彼女の骨は、黄金の少年と関係しているのは誰かということについて、より個人を特定するのを助ける特別なパズルの1ピースとなりえるのです。
何人かの学者は、王妃ネフェルティティには「王の娘」の肩書を持つムトネジェメトという名の姉妹がいたと信じます。彼女はアイの娘であったと信じられています。この女性は、場合によっては、王妃ネフェルティティと同じ名と肩書をささげられることがあります。そのため、これらの女性は互いに繋がりがあったに違いないのです。ムトベネレトは、実際にはムトネジェメトであると主張する学者もいます。
私はジェフェリー・マーティンによって発見された遺物の中から王妃ムトネジェメトの骨を探し続けています。この男性は彼の人生とんどをサッカラのホルエムヘブの墓を再発掘することに費やしています。しかしながら、私が彼に王妃の骨格の残る場所について尋ねた時、彼は私に答えることができませんでした。後にチェコ共和国の解剖学者Strouhal(以前、王妃の骨を研究していた)がエジプトに戻りそれらを探しましたが、やはり見つけることはできませんでした。よって、私は王妃ムトネジェメトの骨を探しに冒険に出る決意をしました。
まず、サッカラのホルエムヘブの墓の中にある彼女の埋葬シャフトを訪れました。それは岩の下を28mも下ってスリリングな感覚でした。私はすぐに、岩の中の二つの柱の間に掘り抜かれた埋葬シャフトにつきました。
マーティンは下へ降り、このシャフトを発掘するのに非常に熱心に働きました。彼は壁にどんな描写も見つけられませんでしたが、埋葬室の中で石棺を見つけ、同様に葬祭用具や他にも王妃に属していたものを発見しました。チームは王妃が死後、食物やワインを蓄えるための陶器の容器や、王族の女性の彫像の一部、そしてアラバスターの花瓶の遺物に王妃の名前と肩書――“「アメン神の歌い手」”“「王の妻」”ムトネジェメト――の刻まれたものを見つけました。
墓の中から発見された、王妃の名が刻まれたカノポス壺については、こんにち大英博物館にあります。
サッカラの墓を再発掘している間、マーティンはStrouhalによって研究された(そしてそれらは王妃のものであると断定された)人間の遺物を見つけました。Strouhalは、ムトネジェメトが若い年齢でその歯を失ったことを実証しました。彼女は40歳ほどで、出産時に亡くなっています。チームが墓の内部で胎児を見つけたのです。どちらのミイラも、墓泥棒による損害のためとても悪い状態です。
私は王妃ムトネジェメトの骨格の捜索に成功する確率が高いと考えています。他のものの中で、われわれはDNA調査をより推奨し、王妃ネフェルティティのミイラを特定することができるでしょう。我々はツタンカーメンの父と母を特定し、王妃ティイのミイラを見つけ、ツタンカーメンの妻の遺物をも見つけることができるでしょう。
サッカラで墓のシャフトを下ることはとても素晴らしいことでした。リアルな冒険です。考古学の冒険はしばしば我々がファラオの秘密を明らかにするのを助けてくれるのです。
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Mutbenret はムトベネレトでよかったでしょうか……。
こういうとき、ヒエログリフを見たいと思ってしまいます……。
ムトネジェメトもそうなんですが、名前にどういう意味があるのか……気になります。区切りとか、前置詞とか……全然分からないよう。