古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●第26王朝の墓を発見 (修正を加えました)
2010.1.4
discovery.com
http://news.discovery.com/archaeology/largest-saqqara-tomb-discovered.html
Heritage Key
http://heritage-key.com/blogs/sean-williams/biggest-saqqara-tomb-discovered?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+hkdigest+%28Heritage+Key+Digest%29&utm_content=Google+Reader
サッカラ(カイロから30キロ南、川の西岸。古都メンフィスの近く)の遺跡の入り口あたりで
第26王朝(前664-525)の墓が見つかったそうです。
この辺で一番大きいものだそうですよ。
発掘はザヒ博士率いるエジプトチーム。
石灰岩の丘を切り開いた墓のようです。
広間からいくつもの通路と小さい部屋につながっています。
墓の北端に砂屑で満たされた部屋が二つあって、別の部屋につながっており、
そこでいくつか骨と、棺と、つぼを発見したとのこと(鷲かハヤブサのミイラも?)。
より深くまで続く廊下は、7メートル下の埋葬シャフトに続いているそうです。
(正直、どうなってるのか文では分かりません・汗)
ザヒ・ハワス博士によると、 この2500年前の墓は今までに何度か開かれており、
ローマ期の終わりごろに盗掘されただろう、ということです。
このチームは、別の、二番目に大きな、封泥をされた石灰石の部屋を持つ墓も発見し、
中に多くの土器や棺も少し見つけたそうですよ。
(Saite potsサイス朝(=第26王朝)の壷)
サッカラにはまだ秘密がある、とザヒ博士、期待しているみたいですね。
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ご指摘をいただき、二箇所修正しました。
ありがとうございました!
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ザヒ・ハワス博士のサイトが更新されました。
http://drhawass.com/blog/press-release-new-tombs-found-saqqara-0
上記の内容に沿って、内容を少し修正します。
新しく発見された二つの墓は、どちらも石灰石の丘を切り開いて作られたもの。
外部の、東側には二つの壁があり、
初めのものは石灰石で、もうひとつは日干し煉瓦でできている。
砂屑で埋まった二つの部屋から続いていたのは、骨や壷や棺が見つかった広間。そこから、また通路がのびていて、7メートルの深さのシャフトをもったより小さな部屋に続いている。
鷲(ハヤブサ?)のミイラが見つかったのは、墓の北端にある部屋。ここで土器や古代の棺の破片もみつかった。
第26王朝の墓ではあるが、なんどか再利用されたらしい。
●先王朝時代のミイラ「屈葬」
ジンジャーと呼ばれている理由がけっこう納得いってしまう……。
しかしブログにこれ以上の解説がないので、自力で調べなければ。
*
大英博物館のものということで、本家サイトにお邪魔。
http://www.britishmuseum.org/explore/highlights/highlight_objects/aes/p/predynastic_egyptian_man.aspx
(以下、ページの訳です)
***
◆先王朝時代のエジプト人男性(ジンジャー・ジム)
エジプトのゲベレイン(上エジプト・テーベ近郊)より発掘。
先王朝時代後期、BC3400年ごろのもの
・再建されたエジプトの墓穴
この男性は5千年以上前に死亡しました。
この墓穴を再建は、早期エジプトにおいてちぢめた姿勢に埋葬する習慣があったことを例証します。
BC2700年頃にミイラ化の技術が発展するまで、遺体は浅い砂漠の墓に、砂に直接触れる状態で埋葬されました。
そのため、熱され乾燥した砂が人体の重量に対して75%分の水分を吸収し、しばしば腐食を免れました。
水分がなければ、バクテリアは呼吸できず、腐敗を引き起こしませんから、身体が保存されるのです。
この身体は、髪の毛から足の爪の先まで非常によい状態をとどめていました。
後代になってさえ、ミイラ化する費用の無かった人々が、非常にシンプルな服装で、(エジプト文化の早いうちから、身体はたいていまっすぐにして埋められるようになったにもかかわらず)この男性と大差なく、埋められていました。
先王朝時代の墓の発掘は、ナイル渓谷での定住の初期段階の情報の多くを提供しました。
身体はざまざまな種類の埋葬品に囲まれており、それらは先王朝時代(BC4000-3100)の墓から発見される正当なものばかりです。
頭部付近の装身具の配置も典型的です。
***
基本の確認:
※屈葬=墓を母体の子宮とみなし、胎児と同じ形で埋葬することにより、来世への復活を願ったという考え方がある。
ちなみに屈葬はエジプトに限らず、日本やヨーロッパ各地でも見られた習慣だった。
古代エジプトでは基本的に、頭は南、顔を西(死者の向かう方角)に向け、左わき腹が下になっている。
ただし場所によっては、右わきが下で、顔が北、または北東を向いているものもある。上下エジプトでは分けられない。
※ゲベレイン=ジェベレイン
上エジプトの、川が「コの字」になってるとこの、左下の部分、西岸あたり。
●夜のコムオンボ<画像>
http://drhawass.com/photoblog/kom-ombo-temple
橙と紺のコントラストが素敵な一枚。
手前に入れたアップの柱がにくい演出。ラー神が堂々と描かれてます。あれラーじゃなかったらすみません。
コムオンボ神殿は、ワニのセベク神と年長のホルス神を一緒に(一応、左右別にしてますが)祀った神殿。
建造はプトレマイオス2世がはじめ、完成はプトレマイオス12世。だそうです。
●クフ第二の船と5つのボート穴
http://www.waseda.jp/prj-egypt/sites/Khufu-J.html
早稲田のサイトで日本語のものがあったのでリンク。
でもこのサイトは2003年12月25日が最終更新となってます。
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・1987年2月と9月、電磁波レーダーによる地中探査により、「第一の船」同様の穴に木材反応を確認。
(早稲田隊)
同年10月、石灰石の板に穴を開け、ファイバースコープで中を確認
(アメリカ隊-ナショナルジオグラフィックによって組織される国際的チーム)
・1992年12月-1993年1月、その穴にマジックハンドを挿入、木片の採取に成功。
(早稲田隊)
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このサイトにははっきりと
「古代エジプトでは王の葬祭に伴い、船を捧げる習慣がありました」と書いてます。
もう少し詳しく知りたいのですが……。
第一の船には、
どこにどの木が継ぎ合わされるのか、全部ではないが、ヒエラティックを多数記述しているとのこと。そのヒエラティックは二種類あるようです。
面白いですね、知りませんでした。
TVでも、そこを時間をかけて説明してくれればいいのに。
*その他のサイトからつまみ食い*
http://ci.nii.ac.jp/naid/110004631537
これによると
東西(第一、第二の船)の穴は同時に発見されていたが、
西側のものは30年間手付かずのままだった、と。
http://weekly.ahram.org.eg/2008/908/he1.htm
この記事(上記リンク先)はけっこう詳しいです。(Al-Ahram)
第二の船の穴には、外の空気が入ってきてしまい、昆虫による害が出た、と書いています。
1992年に、早稲田隊がそれらを殺虫したが、水が(第一の船の博物館から)漏れてきて、木材の一部分に影響を与えたため、急いで研究を進めなくてはならなくなったと言います。
エール大学のエジプト学者、ジョン・ダーネルによると、
第二の船についての新しい研究は、船の重要性についてのブランクを埋め、それらの船が実際にナイル川を通ったか、純粋に精神的な重要性をもって埋められたのかを、判断するのに役立つだろうと考えられているようです。
(実際使われたかどうか、がポイントなんですね)
第一の船について、ジェドエフラーのカルトゥーシュ18個を含む銘が穴の中のあちこちにあった、とのこと。
後継者が船を埋めたと言うことは、この船が葬儀に用いられたと言う説をより説得力のあるものにします。
◆クフ王のピラミッド付近に開けられた、5つのボート穴:
http://weekly.ahram.org.eg/2008/908/he1.htm
(Al-ahramの同じ記事より)
クフ王のピラミッド複合体からは5つのボート穴が見つかっており、
ピラミッドの東部の側に、細い船頭と船尾をもつ船の形をした穴が3つ、
残り2つは、南側にあって、
四角形の形をしており、木造船の全体を分解して収納するために、切断されている。
東部のもののうち2つは、現在、空。
それらは単純化した屋根を構築するため、幅を狭めているようなので、その上に石灰岩の板で覆いをしていたと考えられる。
イギリスの考古学者フンダース・ピートリーは、南の溝の端を覆っていた屋根ブロックを発見したが、その幅に板をかけるのには支柱が必要であったため、これらは塞がれていなかったと考える学者もいる。
3つ目のボート穴もまた空で、参道の北端上部(葬祭殿のちょうど入口)に位置している。
それらは凸面の床(?)をもち、18段ある古代の階段を通ってアクセス可能。
これらの穴は、おそらくかつてボートが置かれていただろうと思われるが、実際に置いたというよりシュミレートしたのではないか、と推測する学者もいた。
しかしジョージ・ライスナーが参道脇の第3の穴から、縄と金メッキの欠片を発見し、
内部にかつて船が置かれていたことが確証された。
南側の2つの穴は、無傷の船が含まれていた。
マーク・レーナーによると、この2つはある重要な面で他の3つと異なっている。
それらは長く、細く、そしてボート型というよりも四角形に近い形をしていること、そして、本物の船を分解して入れていたということ。
穴は、それらの一部がピラミッド南側の周壁(第4王朝の終わりごろに構築)の下にあったという事実より、遅くとも第4王朝の最後までには構築されていたと言える。
***
まとめると、
クフ王の船(分解されており、復元されたもの)の意義については、3つの説が提唱されており、
・一つ目は、、ヤロスラフ・チェルニーらによって提唱されたもので、
5つのうち4つが、4つの方角にそれぞれ王を運ぶための儀式用のもので、
1つが、実際王の身体がギザへ運ばれるときに用いられた、というもの。
・二つ目は、第一王朝のマスタバに関してウォルター・エメリーが提唱したものが、エジプト学者セリム・ハッサン二よって採用されたもので、
それらは太陽の船であり、その船によって王がラーを訪問するか、または彼が空を航海するのに用いられるというもの。
・そして三つ目は、アブデル-モネイム・アブー・バクルによって提唱され、
船は王の生涯において、巡礼などに実際に使用されていた、というもの。
船が水に浮かべられたかどうかについては、
湿ったあと乾燥したと考えられる、縮んだロープを証拠としていますが、
これだけではなんとも、ということらしいです。
それから、他の三つ(正確には、二つと葬祭殿そばの一つ)と、大ピラミッド南側にあった二つ(船が実際に見つかったところ)は、穴の様子がどうも違うということ、
でも、どの穴も船が置かれてあったもので、
船が見つかった二つも、遅くとも第4王朝の終わりごろまでに作られたもので、ずっと後に埋められたものとは言えない、ということですね。
謎ですね~。
●クフ王の太陽の船についてのまとめ
主に、第一の船について。
◆発見:
1950年、考古学者であり建築家のKamal el-Mallakhカマル・エル=マラクがギザで考古物調査員として作業していたとき、
大ピラミッドの南面に、一対の長く狭い穴の、端と端を結んだ、細いしっくいの線があるのを発見した。
当時そこは、観光客用の道路を作るために片付けられていたが、
さらに掘り進めると、41もの巨大な石灰石の板で覆われ(それは東側のもので、西側のものは40の石灰石の板が覆っていた)、その石うち一つに石工の印とジェドエフラー(クフの後継者)のカルトゥーシュが刻まれていた。
この下を調査するべきだ、と上司を説得するのに四年かかり、
1954年5月26日、彼はついに穴に下りる。
中はヒマラヤ?スギの甘い香りで満たされていた。
たいまつと鏡を使い、彼は解体された船のオールをフルサイズで見た。
穴は空気が薄く、見たところ船はかなりよい保存状態にあった。13の、層に近い状態で丁寧に積まれており、船の索具やマットのロープなども備えられ、すべて揃った状態だった。
布とそれを覆ったマットを補強し、それから木のひとかけらずつを穴から取り出すという大変な作業の後、
船の再建は1958年Hag Youssef Moustafaに率いられて行われ、
完成までに10年以上の月日を要した。
3つの船の穴が空の状態で見つかっており、四つ目が1954年に発見。これがクフ王の(第一の)太陽の船と呼ばれるものだった。
また、5つ目の穴は1987年、ドリルで穿った穴にマイクロカメラを挿入し、もうひとつのボートが厚い石灰石の板の下にあることが確認された(第二の太陽の船)。
*
◆第一の船の概観:
クフの太陽の船は、第4王朝以降に見られる絵とよく似ている。
パピルスの形を模した船の形は、聖船『wiaウィア』や太陽の船を連想させる。
推定45トン以上、長さ43.3メートル、幅5.9メートル。
1224もの固体をパズルのようにつなぎ合わせるようになっており、釘などはいっさい使わず、板張りは開けられた穴に植物の繊維で作ったロープを通して固定する。
木は水を吸って膨張するので、水に浮かべれば隙間が閉じ、水の浸入を防げると見られる。
左右に5つずつの長いオールと、
船尾の舵取りのためのオールが一対。
閉じられた客室は板張りされ、ヤシ(またはパピルス)型の柱頭がある。長さは9メートル。
客室の正面の開いた天蓋(12のポールで支えられている)には、布かマットがかけられていたと思われる。
手前にある小さな小屋には、船長か操縦者が使用したのだろう。
船尾はパピルス型。
川の航海に適当な構造で、帆は備えられていない。
船は輸入されたレバノン杉から構成されると、しばしば言われているが、
ある学者はそれがエジプト原産の木、おそらく松ではないか、と指摘している。
アカシアをも使用しているといわれている。
*
◆船の意義:
クフの太陽の船と呼ばれるこの船の意味については、まだ議論がなされている。
船が水に浮かべられ使用された痕跡がある、と主張する学者もある。
クリスティン・ホブソンは、「船は実際に使用可能ではあったが、長距離の航海には向かない。公用船であり、クフ王が生前か、死体防腐処理し埋葬する前に、彼の身体をギザまで運ぶために使用したのではないか」と指摘する。
ザヒ博士は穴の中に木材(杉とアカシア)のかんな屑があったことを指摘。
この穴の近くで船が作られた可能性が高いとし、
船を埋めたのは古代エジプトの信仰と習慣に基づいたものであり、王の魂を天国へと運ぶ役割をもっていた、と主張している。
ただしこの穴に埋めるために、わざわざ船を解体せねばならなかったため、この穴はこの船のためにあけられたものではない、という指摘もされている。
正確には、まだ分かっていない。
*
◆その他の船の発見:
エジプトでは今まで、いくつか古代の木製船と据え置台が発見されている。
1893年、Jaques de Morgan discovered ャキュース・デ・モーガンはダハシュール、中王国時代のセンウセレト3世のピラミッド付近で、6隻の船を発見。
1987年、大ピラミッドの西側のボート穴が検査され、第二の船の存在を確認。
この船は穴の中に残し、完全な状態で保存しようということになった(2009年2月25日の記事)。
1991年、アメリカの考古学者デヴィット・オコナーは、アビドスにある第二王朝カーセケムウィの葬祭周壁の近くで、12隻ものボート穴を発見。
ただし最近の専門家による調査で、この船は周壁の建造よりずっと後の時代に置かれたことが分かった。
クフ王の船ほど保存状態がよくはないが、どの穴からも木造船の遺物が発見された。
おもしろいことに、それらの船は日干し煉瓦で満たされ、それぞれが船の形をしていた。
エジプトでは木材が貴重な品であったと考えられているため、この発見がエジプト史の初期の国力と、他国との関係に、多くの洞察を与えることが望まれている。
また2000年ごろにはさらに2隻の船がアビドスで発見され、
合計14隻の船が、クフ王のものより少なくとも300年はさかのぼると考えられている。
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画像付きの解説
www.bluffton.edu/~sullivanm/egypt/giza/boat/boat.html
より詳細な内容・細部も分かる画像付き(ブログ)
http://egyptsites.wordpress.com/2009/02/25/the-solar-boat-museum/
板の接合方法、イラスト付き
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/shipconstruction.htm
太陽の船と葬儀の船について
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/solarships.htm
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他にも穴が見つかっていること(中は空だったこと)は
もう少し調べてみたいです。
そこに船があった可能性はどれくらいだろう。
穴が小さくて解体しないと船が入らない、というのも気になります。
カーセケムウィの葬祭周壁ちかくで見つかったものは、第二王朝より後とはいえクフ王より前の時代、ということでしょうか。
だとしたら、そのときは(日干し煉瓦を使ってでも)船の形をそのまま埋めてるんですよね。どういうことだろう。
解体する必要性は、気になる点ですよね。
船が二つでなければ、『太陽の船』とは言いづらい気がします。
とはいえ、太陽神と取り巻きの船、とも、考えられないことはない気がしますが……。
デンデラのハトホル神殿の天井に、星の神として船に乗った神の図がなかったですっけ……。
この、クフ王の船、
ウィアという聖船もですが、
「マア」と読むヒエログリフ(鎌)の形に似てますよね……?
あの曲がりようは、機能的には無意味と思うんですが……どうだろう。
あ! 先史時代に描かれていた船の形も、こんなふうに曲がった感じなんですね。
パピルスで作った舟の場合、機能的に必要なのかな。
木製の船には、必要ない気がしますが、昔の形をそのまま表現してると言うのは、ありえますよね。
どっちにしても、ただの『川舟』ではない、
宗教的な(しかも葬送に関する)意味合いは持っていそうですよね。
第二の船は、穴の中で保存しようという話は……?