古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
行ってきましたよ!
2時からの記念講演を、展示を見てから聞きたいと思って、
12時半には見始めたんですけど、
間に合わなくて、講演後にも見直しました。
講演で説明がありましたが、
この、トリノ・エジプト博物館には、館長のスキアパレリが発掘したものが多くあって、
彼が発掘した未盗掘の『カーの墓』の埋葬品は、特別室を作って展示しているそうです。
見たかったけど、条例で国から出せないのでは、仕方がないですね(涙)。
布とかももちろん、椅子もたくさんあったそうです。
今回の展示会には、デル・エル・メディナ(王家の谷で働いていた職人たちの町。発音はディール・アル・マディーナ「町の修道院」。古代エジプトではセト・マアト・ヘル・アメンテト・ウアセト「テーベの西の真理の場」)で見つかったものが多くあったみたいで。
アメンヘテプ1世とその母、イアフメス・ネフェルトイリの彫像や図像が多いんですよね。
この二人は、職人たちの守護神だったようですよ。
でも、神格化されたのはアメンヘテプ1世の没後……19王朝になってからで、
これらの像は、アメンヘテプ1世の時代(18王朝初期)には見られなかった、カルトゥーシュの前に「王冠の主」の称号がつくことで分かるのだとか。
(図録にそう書いてありました)
こういう、ちょっとした豆知識的な話を、講演でいくつか聞いてきました。
第22王朝の棺には、胸に赤い紐(ベルト)が交差して描かれている、とか。
像の椅子側面などに描かれたセマ・タウイについてはもっとおもしろくて、
セマ・タウイって、上下エジプトの統一を表した、パピルス(下エジプト。北)とロータス(上エジプト。南)が結ばれた絵ですよね。
それが、そのまま像の向きを表してる、というんです。
たとえばこの展示会の目玉である『アメン神とツタンカーメンの像』では、
アメン神の椅子(左側面)にセマ・タウイが描かれていて、右(顔のあるほう)にパピルス、左(背のあるほう)にロータスがありますから、
この像は、北を向いて建てられていた、と。
特にびっくりしたのは、南を向いて置かれた像の、正面の台に、ロータス同士を結んだセマ・タウイが描かれて、その像の背にパピルスが描かれている、そういうものもある、と。
いやあ、セマ・タウイって、必ずパピルスとロータスの二種を結んであると思っていました……。
アメン神とツタンカーメンの像は、
北を向いていた、ということは、カルナク神殿の北のほうは神殿奥になるので、ルクソール神殿のほうに置かれて、カルナク神殿のほうを向いていた、と考えられるそうですよ。
そんなことまで分かるんですね。
そういえば、
カルナク神殿とルクソール神殿が、
王家の谷・王妃の谷と対になってるなんて、気づかなかったです。
今は、谷に入る前にカメラを撮られちゃうそうですよ。
でもケータイは持っていっていいとか。
だからって写メ取らないように、って言ってました(笑)。
その他、トリビア的なネタで、
エジプト王で初めてピアスの穴を開けたのはトトメス4世だとか(ミイラを見たら分かる)、
アンモナイトは、あの渦巻きがアメン神の聖獣(くるっと回った角を持つ牡羊)の角とよく似ているから、アメン神の名前をとってつけられた、とか(名前をつけた本人がそういってるらしい)
アマルナ美術は、今までのような方眼を用いた絵の描き方を徹底していなかったために、上半身が大きくて短足なものが多い、とか。
ツタンカーメンの墓の壁画もまさにそれなんだとか(言われてみれば、きれいだけどバランスが悪い!)。
今回の展示の、ステラの一つにも、そういうのがあったようです。
あ、あと、びっくりしたが、
このステラに見られるような、服を茶色に染めている絵は、
実は茶色だったのではなく、卵か何かで光沢を表現していたのが、
変色してしまって、ああなったのだとか。
この茶色い色の表現、アニのパピルスにも見られたと思うんですけど、
模様じゃなかったのかあ……(白のほうが好きなのでスルーしてました)。
何でこの部分だけ光沢させてたんだろう。
亜麻布って、薄く織ると光沢を帯びるのかな。
ほかにも、
エジプト人にとって右は重要だった、というのを、
「王の右の扇持ち」という称号が重要な地位にあった人に与えられた、というものから説明されて。
右は西。西日は強かったから、それをさえぎる仕事は重要なものだった、と。
それが、日本の京都が「西=右京」となってるのと同じだ、とおっしゃってました。
いや、日本のほうが知らなかった(笑)。
これよりも、祭りに担ぐみこし(聖船の神輿)を、日本語だとうまく訳せる(英語だと「mobile shrine移動式祠」)というほうが、ああ、日本人だから得なこともあるかも、と思えました(笑)。
あ、もうひとつ。
エジプトのレリーフは浅いので、写真を撮ろうとしたら、ちょうど斜めに光が差す時間でないと綺麗に撮れない、とか。
知ってると、旅行に行くときいいですよね。
***
さて。
自分的な、エジプト展の楽しみ方は、
神様の図像や、ヒエログリフを探すことです。
辿ってるときりがないくらいいっぱいありました……。
ちょっと勘違いをして、
ホルエムヘブを、あの軍人から王になった人と同じだと思ったり(トトメス4世に仕えた書記だった)、
カーエムワセトを、ラムセス2世の四番目の息子だと思ったり(今回来ていたのは、ラムセス3世の息子でした……ややこしい!)
この、ホルエムヘブの墓の入口は、
左にアヌビスと、ウプウアウトの名前があって。右はオシリスと、……端はなんだろう??
プタハ神はもう、口元がかわいくて。大好きです!
ピンセットの構造に感心したり。
第一中間期ごろの枕には、棒がいっぱい刺さっててびっくりしたし。
エジプトらしい椅子(こういうのって意外に来なくないですか?)に興味をもったり。
で、イビの棺。
サイトを見たとき、綺麗だなあとは思ったんですけど、
もう本当に、機械的と思えるほどの整いようですよね。
神様の絵や名前が結構あったので、頑張って探したんですけど、
この隼頭の神(右側、下から二番目の枠)が、「ホル・ケンティエンイルティ」ではないかとっ……。
その後ろはトトでいいのかな。
それから、タバクエンコンスの人型棺。
これは本当に、美しくって。
でも、個人的には、棺の側面がすごく魅力的でした。どうして図録には、これが載ってないんだろう。もったいない!
棺に、ヌトを持ち上げるシューの図があったりするんですね。他のは、死者の書のシーンでよく見るから、なんとなく分かるんですけど。
この棺は、底の女神の絵(特に髪のあたり)も美しくて。すごく見甲斐がありました。
内蓋の、足元のほうに、
ホルスの四人の息子たちが、人型で描かれてるなあと思ったら……、
ハピが二人いて、ドゥアムテフがいなかった!
こういうことって、結構あるのかな。
末期王朝時代の死者の書は、
右端の、アヌビス神につれられてオシリス神のところへ行く図が、
なんだか、いやいや引きずられてるみたいに見えたり(笑)
アヌビス:「ほら、こっちだって。早く来いったら」
死者 :「い、いやいやいやそんな、わたくしなんかそんな……」
みたいな。
二つの真理の間、には、マアト女神が二人いるし。
その上は、線だけ引いていて空欄。書く時間がなかったんでしょうか。
あと、じつは、
中王国時代の棺が一つ来ていたのが、すごくうれしかったです。
これ、内部にもしっかり装飾してあって。
底には何もないですが、蓋の裏側にも装飾があります。
表みたいになっていて、星の図がたくさん書かれているので、
これは、イアン・ショー『一冊でわかる古代エジプト』p79にあった「星時計」ってやつなのかな、と。
こういうの見るの初めてで。すげーとか思ってました。
この本によると、
<ハルコ・ウィレムズによると>中王国時代の棺の装飾には、いくつかの基本的な要素があるのであり(目、偽扉、オブジェクト・フリーズ(副葬品をかたどった装飾)、定型供養文、神々への祈祷、コフィン・テキスト、二本の道の書、星時計)
ということらしいので、星時計って、珍しくはないんでしょうか。
二本の道の書は無かったような……どうでしょう。
オブジェクト・フリーズは、外側にある供物台の上の供物や盾・弓などでしょうか?
中にも外にも、「イマアキイ……」の文とか、「ヘテプ・ディ・ネスウト」の文があったような。
西側の内の面には、供物の表がありました。
このあたりが、図録に載っていないのが残念です……。
個人の名前が特定できないですね、まだ……。
マア・ケルウの前が狙い目だって聞いたんですが、
イビの石棺でみても、上に確かに「ib」。ただ、下のほうの縦にある、マア・ケルウの前の「i・ba」とか……あ、これは関係ないのか。
難しいなあ。
図録(2300円)が
けっこう芸術的な写真の写し方をしているものもあったり、
でも、せっかくの棺の側面を写してくれてないとか、
すごく残念な部分も(涙)。
とにかく、今までで一番楽しめました!
知れば知るほど、面白くなりそうです……。
そういえば
出土地も時代もわかっていない、布が来てましたけど……。
あれ本当に、古代の布なんでしょうかっ……。
そうだというからには、似たようなものが他にも見つかっていたりするんでしょうか。
いやあ。ただの古タオルにしか見えなくて(笑)。
あと、近藤二郎先生、
「めがみ」を「じょしん」って言ってたなあ。
今の流行なのか、世代の差なのか。
早稲田の常識なのか、世の中の常識なのか。
「めがみ」のほうが慣れてるんだけどな。
●大ピラミッド労働者の墓、発見
http://drhawass.com/blog/press-release-new-tombs-found-giza
クフ王とカフラー王のピラミッド建設に従事した労働者の集団墓が
ギザ台地の「労働者の墓地」地域で発見されました。
発掘はザヒ・ハワス博士率いるエジプトチームによって行われました。
墓は第4王朝のもの。
ザヒ・ハワス博士によると、1990年代に発見された、第4王朝末から第5王朝時代(BC2649-2374)に建てられた労働者の墓と、同様のものを見つけるのははじめて、とのこと。
この発見は20世紀および21世紀のうちで最も重要な発見の一つとみなすことができるだろう。この発見によって第4王朝早期をより多く明確にすることができ、ピラミッドは奴隷によって作られたという噂をより否定するものにもなる、とのこと。
「これらの墓は王のピラミッドのそばに建てられていることから、彼らは決して奴隷などではなかったと言える。奴隷であれば、王の墓のそばに自分のものを建てることなどできないからだ」
この中で最も重要な墓は、イドゥのもの。
日干し煉瓦で作られた、長方形の構造をしたもので、外側は石膏の覆いで包まれています。
そこには複数のシャフトが含まれ、シャフトやその正面の壁がん(くぼみ)は白い石灰石で覆われています。
発掘監督のAdel Okashaは、
イドゥの墓の上部は、メンフィス信仰の伝統にみられる、人類の生成が始まった永遠の丘を象徴する、アーチ型になっている、と語ります。
この形は、この墓が第4王朝早期にさかのぼるものであるとする強固な証拠であり、ダハシュールにあるスネフェルのピラミッドのそばにある墓ともよく似ている、といいます。
イドゥの墓の西側に、また別の労働者の集団墓が発見され、そこからは棺も見つかっています。
その南側にはまた別の大きな墓が見つかっています。この墓は日干し煉瓦で作られた長方形の墓で、いくつかのシャフトをもち、そのどれもに屈曲した骨(屈葬のこと?)と、そのそばに土器の破片を見つけました。
発見された証拠からは、
デルタと上エジプトにいる家族が21頭の水牛と23頭の羊を(ギザ)台地に毎日送り、労働者を養っていたことが明らかになりました。
ハワス氏は、
これらを送っていた家族はエジプトの政府に税を払っていなかったが、正確には、エジプトの国家プロジェクトのひとつを共有していたのだ、と指摘します。
10万という数を記したヘロドトスとは矛盾して、労働者は一万人を超えていなかったとハワス氏は言います。
この発見は、労働者がデルタと上エジプトの家族のトップ(働き頭?)から成っていることを示します。
ハワス氏は、科学と考古学によってピラミッド建造の時期を特定することはできない、と主張しました。
それを氾濫期に限定するのは、建造プロセスは増水している三ヶ月間しか実行できないという誤った情報に基づいているため、間違いである、といいます。
構築に使用される花崗岩、玄武岩および石灰石のブロックの輸送は、氾濫期にのみ行われましたが、建築作業そのものはこの季節に限定されず、一年を通して行われました。ピラミッド本体を構築するのに使われたブロックは、ギザ台地そのものから切り出されているのです。
ピラミッド建造者たちの墓の発見は1990年、
壁の南に位置するネクロポリスから10メートル向こうにあった日干し煉瓦の構造に、馬がつまずいたことから起こりました。
ネクロポリスは傾斜路によってつなげられる二つのレベルからなります。それらは異なる形とスタイルをもった墓にわけられます。いくつかはピラミッド型で、それ以外はアーチ型の天井をもち、偽扉を含んでいるものもあります。
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うわあ、これはすごいですね!
上エジプトと下エジプトからそれぞれ連れてきていたんですね、
当たり前といえばそうですが、こういう風に証拠が残っていて、明らかになっていたとは知りませんでした。
アーチ型は原始の丘の意味があったんですか……。
メンフィスの信仰とか、ぜんぜん勉強不足です。ヘリオポリスのものとは違ったのかな。
とても興味深い記事でした。
他にも情報があったら、また載せます。
●セネトについて
死者の書や墓壁などに描かれる盤上ゲーム。
先王朝時代から埋葬品としてお墓に入れられているものが発見されているが、
宗教的な意味合いがつけられたのは第18王朝ごろではないかといわれている。
(セネトという遊びが初めて知られるのは、第3王朝のジョセル王の書記監督へシラーのマスタバ墓に描かれていたことから。
初期王朝時代には既にセネトボードのヒエログリフが記されているので、ずっと古くからあると考えられている。)
セネトは「通過」の意。
二人用のゲームで、戦略性と、運も問われたものと考えられている。
10×3の計30マスで、
駒は7個ずつ(5個ずつのものも)。
マスを「ペル(家)」と呼び、
長細い棒を四本投げ、表裏の組み合わせで目を決める。
マスに描かれるものは、すべて同じではないが、以下のようなものが多い。
(数字は進む順番。逆S字に駒を進める)
1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
20 19 18 17 16 命 14 13 12 11
21 22 23 24 25 美 水 Ⅲ Ⅱ Ⅰ
命=アンク
美=ネフェルウ・・・良いマス
水=nの波線3本・・・悪いマス
Ⅲ=鳥や葦、または棒が、三つかかれる
Ⅱ=人や神、または棒が、二つかかれる
Ⅰ=隼、ホルスの目、太陽などひとつだけ、もしくは未記入
約80ものセネトボードが見つかっていて、
ときに他のマスに何かが記されているものもあったが、
右下の5マスだけは、初期のものから一貫して同じ意味合いを保ち続けてきた。
古王国~中王国時代までは、それらの5マスは単純に「良い、悪い、3、2、1」を表していた。
第18王朝に、セネトは大きく変化する。
それが単なる日常の遊びではなく、死後の世界を無事くぐりぬけるための必需品となり、
墓壁に描かれたり、埋葬品として納められるようになった。
第18王朝の終わりごろには、多くのマスに銘が描かれ、より複雑で象徴的な意味を持つようになった。
セネトゲームのボードの裏に
3×11のマス(?)が見つかることがあり、セネトの原型かもしれないといわれている。
30マスというのはひと月を表しているように思われる。
セネトのボードの裏側が
「20マスゲーム」のボードであることも。
こちらは後に東から入ってきたものであるらしい。
遊び方はいろいろ推測されているが、確かなことは分かっていない。
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参考:
http://gamesmuseum.uwaterloo.ca/Archives/Piccione/
http://www.reshafim.org.il/ad/egypt/timelines/topics/games.htm
http://www.digitalegypt.ucl.ac.uk/furniture/senet.html