古代エジプト関連限定ブログです! 宗教思想関連多め
●屈折ピラミッドの「船着場」?発見
http://heritage-key.com/blogs/owenjarus/huge-structure-discovered-near-snefrus-bent-pyramid-egypt-may-be-ancient-harbour?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed:+hkblogs+(Heritage+Key+-+Blogs)&utm_content=Google+Reader
2010.8.25の記事です。
要訳します。
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ドイツ考古学学会のカイロ支部とベルリンのフリー大学?は
磁気探査とボーリングコアの探査を使って
スネフェルの屈折ピラミッド付近で巨大な建造物を発見しました。
おそらく古代の船着場だろうと考えられるそれは、
ピラミッドの神殿のうちひとつと140mの参道で結ばれています。
それ自体はまだほとんど発掘されておらず、参道の一部のみが掘り出されています。
建造物は90×145mのU字型で、
日干し煉瓦で造られており、東側の壁がありません。
「これは船着場か、それに似た何かであったように思われます」
カイロのドイツ考古学学会ニコル・アレクサニアン博士は言います。
運河を引いてこの地域に船が入ってきた可能性がある、とのこと。
船着場は後代のピラミッドで知られ、
ファラオの遺体を受け入れる役目があったと考えられています。
しかしながら、この新しく発見された構造が屈折ピラミッドの創設者(スネフェル王)の埋葬のために使われたというのは、考えられません。エジプト学者の間では、(スネフェル王は)最終的に赤のピラミッド(屈折ピラミッドより2km北に位置する)に埋葬されたと広く信じられているのです。
スネフェルは第4王朝の初めの統治者であり、
ダハシュールに2つ、メイドゥムに1つのピラミッドを建造しました。
これらは初めて作られた「“真正”ピラミッド」――側面が滑らかなもの――として知られています。
彼の死後、息子のクフが王座を継ぎ、ギザの大ピラミッドを建造しました。
<140mの屋根付き参道>
参道は神殿の真東に伸び、アーチ型の屋根を持っていました。
これはピラミッド複合体に屋根ありの参道が使われた初めの例となります。
「壁は3m近くと驚くほど高く作られています」
アレクサニアン博士は言います。
「驚くほど切り立っていて、まるでトンネルのようだわ」
参道の内部には2.5m幅の通路が残っています。壁は長い間維持されてきたらしい、装飾のない白と黄の漆喰で一列になっています。
「漆喰が4層になるため、何度か修復されたことが分かります」
「異なる層の漆喰の風化状態をみると、参道はかなりの期間、少なくとも40年間は使われてきたと推測されます」
<屈折ピラミッドの建造>
考古学者は、スネフェルがなぜ4つもピラミッドを建造したのか、まだはっきりとは分かっていません。
屈折ピラミッドは、その名が示すように変わった角度をしていますが、建築中に角度を変えたように見えます。
これは、労後者たちが新しい建築技術を得ようとして失敗したことを示唆しています。
しかしながら、ドイツの調査隊による調査は、台地の地質がこのピラミッドの変わった角度に意味づけをすることをほのめかします。
「地面は安定していなければならない――これが、屈折ピラミッドの抱えた問題でした」アレクサニアン博士は言います。
「そこは石だけではなく“taffla”――泥のような部分もあったのです」
「この影響を受け、ピラミッドの基礎作りが困難となり、角度を変更することになったのです」
<大地を平らにする>
ピラミッド建設者が台地を平らに変えたという証拠――東側から石を採掘した――もあります。
調査隊は会議に、ピラミッドの台地の地形を「川の経路や溝の侵食、土壌浸食の過程だけを考慮に入れて説明するのは難しい」と抽象的に書いています。
よって、「ピラミッド台地は直接人の工的なレリーフ型の効果を考えられたのではないか」
つまり、「台地の形状を人為的に変えた」ということです。
アレクサニアン博士が言うには、
台地を平坦にすることは「耕作地から見ればずっとドラマティックに見える」からだという。
古代の人々は平らで、角のとがった、頂上にはピラミッドが建ち、もしかしたらそこへ運河が伸びていたものを、見ていたかもしれません。
その光景は4600年前の人々に畏怖の念をいだかせたことでしょう。
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訳してみたものの、よく分からなかったのですが(汗)
ピラミッドを建てるときに平らにするというのは、普通のことではなかったのかな、とか
そうしてみたものの、人工では土台が不安定で、そのため角度を変更して安定を図ったのかなとか
勝手に想像していますが……。
●シリアとエジプト、古代の交易の証拠を発見
http://www.earthtimes.org/articles/news/341179,ancient-trade-routes-nile.html
交易の証拠は前から出てるみたいですが
思ったより大規模っぽいということです。
シリアのアレッポという都市の近くにあった、かつての王都の廃墟にある墓から、ナイル川流域とメソポタミアが起源のものがみつかり、
古代の王国は非常に多くの富に恵まれており、考えられてきたものよりずっと広大な国際貿易を行っていたのではないか、と調査隊の隊長さん。
この遺跡では、古代エジプトの中王国時代の王、アメンエムハト二世の娘イタによってスフィンクスの石像が贈られており、今までも何千キロも離れたエジプトとカトナ王国の関係が示唆されていました。
最近の発掘では、青銅器時代BC1650~1600にさかのぼる古代の贈り物が発見されており、その中には金とラピスラズリでできた腕輪、やしの木が描かれた金のシート、小さな水晶のつぼ、エジプト起源のカバの石像などを含むそうです。
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いやあ、そういえばエジプトの文明は青銅器時代に入るんですよね……。
なんだか、え、そうなのって感じしませんか?
●カルガ・オアシスで第二中間期ごろの遺構を発見
http://www.drhawass.com/blog/press-release-new-settlement-discovered-kharga-oasis
テーベと西部砂漠を結ぶ古代の道を調査中の
エール大学の調査隊が
カルガ・オアシスでかなり大きな遺構を発見したそうです。
そのあたりで発見されている主な遺物を千年もさかのぼるものだといいます。
遺構は南北1km、東西に250mの幅で、
第二中間期(BC1650~1550)ごろのものだそうです。
ナイル渓谷から西部砂漠と、西スーダンのダルフールを結ぶ、キャラバン隊がせわしなく行きかう道に広がっていて、
考古学的な証拠から、それはこの一帯の集落の行政中心地の一部で、住民は大規模なパン焼き場で仕事をしていたということです。
調査隊は発掘中に、行政の日干し煉瓦建造物の遺構を発見したようです。
部屋と広間のある建物の構造が、ナイル渓谷の各地で今までに発見されている行政上の建造物と似通っていたため、
遺跡はこの居住地の行政中心部に設けられた監視所だったかもしれないとのこと。
パン焼き場が、二つのオーブンと、陶芸用のろくろ(パンを焼くためのセラミックの型を作るための)などと一緒に発見されています。
その外側にあるゴミ捨て場の遺物から、この居住地では食料を余剰生産しており、おそらく軍隊の食糧をまかなっていただろうことがうかがえるそうです。
この居住地は中王国時代に始まり、新王国時代のはじめまで続いていたと思われる、とのこと。
最も栄えたのは、中王国時代の終わりから第二中間期ごろだろうということです。
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/08/25/AR2010082501576.html
「第二中間期はファラオが、北からはアジアの侵入者ヒクソスに、南からはヌビアの王国に挟まれていた期間であるため、オアシスとその貿易ルートはエジプト王国存続の鍵となった可能性がある」
オアシスを通り、スーダンのダルフール地区とナイル渓谷、さらには古代パレスチナおよびシリアを結ぶこの長大な行商路は、
らくだが使用されるより少なくとも千年は昔から、
ロバを使ってワインなどのぜいたく品が運ばれていたようです。